最近のベートーヴェンピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲演奏 2020年12月

 これまでクラシック音楽の中で、器楽と室内楽、中でもピアノと弦楽四重奏を好んで聴いてきた。ベートーヴェンのピアノ・ソナタ、弦楽四重奏曲はこのジャンルの根幹の曲であり、聴くことが多かった。  ところが、この10年ほどはクラシックのCDや音楽ソフトを聴くことが以前より少なくなった。演奏会に出かけることも減った。思えば、合唱団に入り合唱を歌うようになってからのことだ。新しくリリースされるCDに対する関心も薄れ、買うことがめっきり減った。クラシック音楽への関心が合唱に集中して飽和状態になり、他に向かう余裕が無くなっているということだろうか。  もう一つの事情として、加齢で聴覚が衰え、高域の音が聴こえにくくなってきたことがある。体温計のピピピが聴こえない。気合を入れて音楽を聴く時には高音質のヘッドフォンを使うことが多かったが、それが聴神経への負担になっていたかもしれない。ヘッドフォンで聴くことが怖くなり、この頃は避けている。クラシック音楽を聴かなくなった背景に、そんなこともある。  とりわけベートーヴェンの曲は、聞き流すわけにはいかない、集中して聴く必要がある音楽なので、遠ざかってしまった。  そんな中で、たまたま「レコード芸術」誌2020年12月号の「新時代の名曲名盤500」特集でベートーヴェンが取り上げられているのを読んだ。そもそも、演奏はそれぞれ個性があってそれが面白いのであって、この曲の決定盤はどれか、という枠組みはつまらない。が、おりしも2020年はベートーヴェンの生誕250周年ということで何かと話題に上っている。ピアノソナタ、弦楽四重奏曲の最近の演奏事情、演奏評価事情はどうなっているのか、興味を持った。  この「名曲名盤」は、複数の選者の投票で名盤CDを選ぶ趣旨なので、評価が定まっていない新しい演奏、ユニークな演奏は票が集まらず、結局、評価が定まった、オーソドックスな演奏が選ばれる傾向がある。  しかし、今回の選定はそんな予想を超えていた。ピアノソナタについては一人の大演奏家がどの曲でも一位というのでなく、R.ブラウティハム、R.グード、河村尚子、F.グルダ、F.F.ギィ、A.リュビモフ、A.シュタイアー、I.レヴィット、S.リヒテル、W.バックハウス、内田光子、M.ポリーニといった様々なピアニストが並んでいて、1/3は知らない名だ。またフォルテピアノの演奏者が少なからず入っている。私の離れている間に、ずいぶん様変わりしていた。  弦楽四重奏曲は、曲ごとではなく初期、中期、後期とまとめてだが、初期・中期はエベーヌ四重奏団の全集が、後期はモザイク四重奏団が選ばれていた。長らくアルバン・ベルク四重奏団が不動の一位だったが、様子が変わっていて、ここ何年かの演奏が選ばれている。こちらは馴染みある名で少し安心したが、二つの団体のベートーヴェン演奏というと、モザイクの初期曲集以外は聴いていない。  最近のベートーヴェン演奏を聴いてみたい気持ちになり、R.ブラウティハムのピアノソナタ全集、エベーヌ四重奏団の弦楽四重奏曲全集を入手した。久しぶりに集中してベートーヴェンを聴いたが、どちらも良い演奏だった。  ブラウティハムの演奏は衒いが無い。フォルテピアノを2台(選帝侯ソナタなど最初期のDisc 9はさらに別の1台)を使い分けている。フォルテピアノといっても音は曇らず、輝きも乗った良い音色だ。モダンピアノのダイナミックレンジは無いが、適度な強弱があって、迫力や重みもしっかり出る。ブラウティハムの演奏は、楽器の特性を良く活かし、軽快でありつつ表情豊かに弾いている。  ベートーヴェンの曲というと、精神性の深さが言われ、モダンピアノの演奏では、中期や後期の曲がダイナミックに演奏されるが、過度と思えてくる。大ホールの遠くのステージからの演奏ではなく、近くからの親密感あるフォルテピアノ演奏もまた良いものだ。後期の曲も別の聴こえ方になる。ブラウティハムは、衒いなく自然体でベートーヴェンに向かっている。楽聖、巨人でない、等身大のベートーヴェンだ。  エベーヌ四重奏団の演奏は予想以上の水準だった。  エベーヌ四重奏団のメンバーは、Wikipediaの情報によれば、フランスのブローニュ=ビヤンクール地方音楽院在学中の4人により1994年に結成されたという。同音楽院で第一・第二ヴァイオリンはジャズ・ドラム専攻、チェロはジャズ・ピアノ専攻、既に交代した人だがヴィオラはジャズ・ボーカルを専攻したという。冗談のように聞こえる話だが、実際ジャズのCDも出しているらしい。  想像だが、四人は幼いころから弦楽器の修練を積んで、クラシック音楽ではもはや水準を達成して、音楽院で同じようにジャズを、それも別の楽器で専攻することにして出会ったということだろうか。改めて手持ちのドビュッシー、フォーレ、ラベルの弦楽四重奏曲を入れた2008年のCDのジャケット写真を見ると、そんな経歴がうなづける雰囲気の若者たちが写っている。  ジャズと関わりの深いクラッシック演奏者は、F.グルダ、A.プレヴィン、L.バーンスタイン、F.サイなど少なくない。ジャズを知る人のクラシック音楽への対し方は、クラシック一本で来た人とはやはり違うものがあるだろう。距離を置いて客観的に見る部分があるのではないか。エベーヌ四重奏団の年齢だと、ジャズといってもモダンジャズではなくずっと現代的なものだろうから、なおさらのことだろう。  そうしたジャズの要素が作用しているのかどうか、16曲全体に、演奏が停滞することなく軽快に前に進んでいき、重苦しいところが無い。リズム感が良いのだろう。推進力があって切れが良い。また一方で、音程感も確かだ。あるべきタイミングであるべき位置に、小気味良く音が置かれていく。ん?という違和感がまったく無い。当たり前のことのようで、これは当たり前ではない。  もちろん、電子楽器でMIDIデータを再生するような、正確に楽譜どおりの機械的な演奏ということではない。心地よい強拍弱拍の波を基礎に、強弱やテンポを動かして豊かな表情を作っている。ベートーヴェンと対話しながらの、とても表現力豊かな演奏だ。このことは、例えばラズモフスキー1番の第2・第3楽章、14番の終楽章などエモーショナルな旋律でも効果を上げていて、情緒と抑制が好ましいバランスになっている。  こうした演奏について、ベートーヴェンの深い精神性の表現が不十分だ、とかの議論になるのだろうか。私は、ブラウティハムの演奏と同様に、ベートーヴェンを過度に神聖視するのでなく等身大に見る演奏であり、良いと思う。  ベートーヴェンをまとめて聴くのは本当に久しぶりのことだが、ブラウティハムもエベーヌ四重奏団も面白く、満足して心地良い疲れになった。旋律の断片が頭の中で渦巻いている。  中期の曲の重々しさ、後期の曲の孤高の精神性は、様々な演奏のアプローチがあるのだろうが、どちらの演奏も重くしすぎず、18世紀末から19世紀初頭を生きた、偉大だが一個の人間であるベートーヴェンになっているように思う。そうした演奏が今の自分には合う。