2022年10月29日ダイアモンド・コンサートのヴェルディ2曲2020年6月

 ダイアモンド・コンサートは、松村 努氏指導のいくつもの合唱団が合同して、約300人の大人数で開催する演奏会だ。今回の曲目は、ヴェルディの「レクイエム」及び「テ・デウム」である。  当初、2020年に予定していたコンサートだったが、新型コロナウィルスの感染拡大により、延び延びになってとうとう今秋になった。結果として、2年越しの長い長い練習になり、途中、休止期間もあった。ずっと皆で合わせて歌う練習ができず、厳しい練習環境だった。  コロナも第7波になったが、練習が再開され、コンサートに向けて進捗したので、曲についての自分なりのまとめをしておくことにした。  ヴェルディの「レクイエム」は、2013年以来、歌うのは二度目だ。当時の私は、合唱を始めて2年目、右も左もわからない初心者だった。合唱初心者が生意気にも、好みの曲ではないと思いながら歌っていた。  Dies iraeの大袈裟、Lacrymosaの情緒過多、Lybera meの俗っぽさ、・・・。オペラ的でレクイエムらしくない、といった評価をしていた。まるでオペラの中の劇中歌のような、演じるレクイエムだ。死者を悼む心が無い表面的な音楽ではないか。モーツァルト、フォーレの曲とともに三大レクイエムと言われるけれど、違うだろう。不遜にもそんな感想だった。  そのため、今回の曲目が知らされて「なんだ、ヴェルレクか」とがっかりしていた。  ところが、練習を始めてだんだんと印象が変わった。大袈裟、情緒過多、俗っぽいはそれとしても、なかなか良いじゃないか、という気持ちになってきたのだ。  改めて作曲の背景を調べると、敬愛していた小説家マンゾーニの死が作曲のきっかけという。ベルディはこの小説家を心から悼み、1年後の命日に初演したのがこのレクイエムだという。原題は、Messa da Requiem per l'anniversario della morte di Manzoni(マンゾーニの命日を記念するためのレクイエム)だ。死者を悼んでいないと私が思ったのはとんだ誤解で、ヴェルディが心を込めた音楽だったのだ。  1873年のマンゾーニの死をきっかけに作曲し、初演は1874年。150年近く前で、日本で言えば維新直後の明治6年から7年。日本は、近代化・西洋化の波が押し寄せた文明開化の時代だ。歌舞伎も近代化に着手し、現在の基礎を築いたのがこの頃らしい。  19世紀、イタリアのオペラを全盛に導いた一人であるヴェルディだ。死者を追悼して全身全霊で作曲するが、自ずと大向こうをうならせるオペラ的旋律になってしまうのだろう。それがヴェルディなのだ。  モーツァルトが、ベートーヴェンがそれぞれのスタイルを持つように、ヴェルディも固有のスタイルがある。精神的というより身体的・官能的。貴族的というより庶民的。大袈裟で劇的だが、聴くものの心を見事に揺さぶる旋律が続く。ヴェルディはやはり大した作曲家だ。  「テ・デウム」は1896年の作曲。ヴェルディの異なる年代の宗教曲4曲を集めた「聖歌四篇」Quattro Pezzi Sacriの中の1曲で、混声四部二重合唱による15分ほどの曲だ。レクイエムよりはDies iraeが無い分、もの静かで宗教曲らしいが、やはりヴェルディで劇的に発展していく。5つの部分からなるが、モチーフの繰り返しが無く、美しい旋律がどんどん展開していき飽きさせない。ヴェルディらしく心が込められた宗教曲だ。  歌う側からすると、どちらの曲も、まずヴェルディの個性が強い旋律にお付き合いすることになる。感情があふれるイタリアの演歌?? 最初は抵抗があるが、いったん馴染むとなかなか心地よい。癖になるタイプの旋律だ。どんどん転調して展開することが多く、合唱とすると、調の変わり目では音が取りにくいことがある。でも、覚えて慣れてしまえば難しくない。  そもそも楽譜が賑やかだ。臨時記号でどんどん転調するので♯、♭がとても多く、一見すると難しそうだが、さすが歌を知り尽くしているヴェルディ、無理のない流れなので思いのほか歌えてしまう。高い音も、勢いで出しやすくしてくれている。当時の合唱団の技量はそれほど高くなかったという。見極めを付けて、うまく配慮してくれているのだろう。  強弱記号も多く、ppなどは当たり前、ffからpppppまであって、こんなレンジの広さは他にない。加えて、morendo(絶え入るように、次第に弱く遅く)という指示もよくある。ここはわれわれ歌い手への遠慮会釈無しだ。意図はわかるのだが。  dolce(甘美に)、cantabile(歌うように)、espressivo(表情豊かに)など、感情を込めた表現を求める発想標語が頻繁に書かれているのもヴェルディ流だ。dolcissimo(極めて甘美に)まである。レクイエムならば、mesto(悲しげに)、lacrimoso(涙ぐんで)、malinconico(陰鬱に)といった悲哀の方向の記号もありそうなものだが、それは書かれていない。  われわれ合唱を歌う者には、表現豊かな歌唱はソロ歌手に任せる、合唱は背後で中立的に歌う、という意識が少々あったりするものだ。合唱指揮者からは常に感情表現を求められ、平板な歌唱で良いはずはないのだが。ヴェルディの曲は、とてもそんな中立、平板では済まされず、合唱演奏の表現性、音楽性の見直しを迫ってくる。私のような、大げさだの情緒過多だのと言うヘボ合唱団員にとっては、感情表現の良い訓練だ。  あざとさと紙一重だが、レクイエム、テ・デウム、どちらもやはり名曲である。