良い演奏、退屈な演奏とは ― 井上直幸「ピアノ奏法」から 2016年1月

 ピアニスト、故井上直幸氏(1940~2003)の著作「ピアノ奏法 - 音楽を表現する喜び」(春秋社 1998年)を読んだ。  発行当時に本屋で眺めて、ピアノ学習者にとても参考になりそうな本と思ったが、自分がピアノを弾くわけでなく、わが子達もピアノとの縁が薄くなりつつある時期だったので、そこで終わっていた。それから15年以上になるが、最近になって図書館の書棚で見つけて改めて読み、大変面白く、とても参考になった。これは自分が合唱で歌うようになり、端くれながら演奏する立場になったことによるのだろう。実のところ、参考という以上にこの本に影響を受けることになったと私は感じている。  この本は「ピアノ奏法」というタイトルで、ピアノ学習者に向けた専門書ではあるのだが、奏法技術の書にとどまらず、副題の「音楽を表現する喜び」を若い世代に伝える本だ。編集者との対談の形で、終始、ピアノ学習者を見守る温かい語り口でわかりやすく語られている。編集者も、自身が相当なレベルでピアノを学んだ人のようで、適切に話を引き出す優秀な対談相手になっている。  第1章は「良い演奏とは?」である。この本を始めるにあたり、井上は、奏法技術ではなく、良い演奏とはどういうものか、何を目指して演奏するか、といった奏法以前の事柄を、章全体を使って語っている。  このことはまことに興味深い。演奏において良し悪しとは何か、音楽において何をもって良いというか、という素朴かつ根底の議論、誰も改めて語らないような話題を、第一級のピアニストが学習者に語り伝える形で文章にしているのだ。ピアノを前提にしているが、音楽の演奏全般に通じる内容であり、私のような合唱を歌う者にも大いに参考になる。また音楽を聴く立場としても、なるほどとうなづける話になっている。  第1章は、まず第1節「はじめに」があり、目を開かされることが書かれている。  声楽や弦楽器が自分の身体で直接音楽を創るのと比べ、ピアノの場合は楽器の構造上、奏者の身体との密接感、一体感が薄く、「音楽する」「表現する」状態になりにくいところがある、旨の記述がある。そうか、合唱などは、身体そのものが楽器であり一体感ということではピアノよりはるかに有利だったのだ。とはいえ発声を自在にコントロールすることは簡単でないが。  また、次のようなことも述べられている。ある程度訓練を重ねれば、表面的に曲が一応弾けている状態になることはさほど難しくないが、それはまだ、よそよそしい、機械のような弾き方の段階だ。魅力的な演奏で、聴いている側が嬉しくなって、良い気分にさせられることがあるが、それは演奏者と楽器が一体となって、ピアノを通して歌い、語りかけてくるからだ。音で自分の中にあるものを表現しているから、ピアノを弾くことが楽しいことにもなる。  なるほどそうだろう。これまた合唱にそのまま通じることだ。  さらに、第2節「良い演奏とは?」で本論に入る。以下、主旨を概略紹介する。(私なりの箇条書きの要約です。) 2) 良い演奏とは? ・良い演奏の条件 ・作品が良く読めていること。 ・曲の様式を掴み、適っていること。 ・もちろん技術が安定していること。 ・僕が思う良い演奏 ・色彩感に富んでいて音楽が豊かであること。 ・いつも音楽が自然に湧きあがり、流れていること。 ・楽しみがあって、たくさんの語りかけがあること。 ・聴いている人を引き込む力があり、しかもそれがとても自然であること。 ・誰かのまねではなく、その人しかできない演奏。 ・その人の人間性、個性が表れていると思えること。 ・全体がとても自発的であること。 ・特に強調したいのは、作品全体を大きくとらえて、それをどう弾くかについて、自分なりのイメージ、構想(プラン)を持っていること。 ・演奏における循環 全体のイメージを描く(考え)  →それを音にする(弾く)   →イメージに近いか聴く    →全体のイメージを描く     → ・・・  この循環が演奏が始まってから終わるまでずっと続く。どれか一つでも欠けると、もう演奏にならない。 ・「皆が弾くであろう標準的な演奏」に自分を合わせようとしてしまう人が多い。  そのように音楽の外側から入っていく姿勢でなくて、自分で可能な限り楽譜を深く読んで「こう弾きたい」と思う、そこから出発してほしい。心の一番深いところで感じていることを表現することが大切だと思う。 ・退屈な演奏のポイント ①テンポのコントロールができていない。 その曲にふさわしいテンポが取られていない。また、テンポの取り方に一貫性がなくコントロールできていない。 ②良いリズムで弾かれていない。 「活きた」リズムへの感覚が必要。 楽譜どおりのリズムが良い場合、そうでない場合がある。 ③フレージングを間違えている。 間違えている、またはフレージングの意識を持たずに弾いている。 ④適切でないペダリング 何となくあいまいに踏んでいる演奏。 ⑤全体の構想(プラン)を持っていない。 作品の特徴・様式等を知った上で、その作品の大まかな形がどうなっているか、どう表現するか、という全体的な構想が感じられない演奏。 ⑥想像力(ファンタジー)が欠けている。 正しく弾かれていても、想像力や聴く人への語りかけがなく、起伏に乏しい演奏。単に安全運転のような、何となく気力に欠ける演奏。  良い演奏、退屈な演奏とはどういうものか。演奏とは何なのか。井上自身の言葉でわかりやすく述べた分析であり、一つひとつに納得がいく。  ことに、「誰かのまねではなく、その人しかできない演奏」、「『皆が弾くであろう標準的な演奏』に自分を合わせようとしてしまう」という指摘は、なるほどと得心した。確かに、合唱の一員である私なども、これまでの演奏会の水準やプロの演奏録音から、半ば無意識のうちに「標準的な演奏」を想定して、それをなぞって再現することでよしとするようなところがある。自分で枠を作り、そこに安直にとどまっているのだ。井上は、音楽というものは、追求していけばどこまでも限界は無いよ。独自の音楽づくりをもっともっとすべきなんだよ。そのように言ってくれていると思う。  音楽を聴き鑑賞する立場としても、ふだんこんなに分析的に聴いていないが、確かに井上のあげたような要素があって、演奏を良いとか退屈だとか感じるのだろう。聴く際のポイントにもなっている。  ピアノを志す若い世代に向けたこの本で、井上は、奏法技術について述べる以前に、まず大事と考えることを伝えたかったのであろう。自然で生きた演奏、自分なりの音楽表現をしようとする姿勢、それこそがピアノ奏法の基本だよ、と。  それは、ピアノに限定されず、合唱を歌う際にも指針になる事柄である。もちろん合唱は単独での演奏でないので、自分一人でどうこうできるものではないが、演奏で目指すべき目標、留意すべきポイントということでは同じである。