小菅 優のベートーヴェン ピアノソナタ
 - ラ・フォル・ジュルネでの演奏と第3集CD 2014年5月

 昨日(2014年5月4日)、東京国際フォーラムで開かれているラ・フォル・ジュルネに出かけてきた。聴いたのは、ミシェル・コルボ指揮、ローザンヌ声楽アンサンブルのモーツァルト「レクイエム」と小菅 優のベートーヴェンだ。  モーツァルト レクイエムは、今、合唱で練習しているので、その参考として。大会議場の2階席で、各声部の声が分離せず、歌詞の子音が聞えてこないという状態だったが、大変参考になった。小菅は、ベートーヴェンのピアノソナタのCDを第1集から聴いて、どこをとっても瑞々しい音楽に感心していたので、一度、実演を聴きたかった。こちらもまた、期待どおりの演奏であり、二つの演奏会にとても満足した。  小菅の曲目は、短調と長調のソナチネとヴァルトシュタインの3曲だった。  ベートーヴェンのソナタは、初期、中期、後期それぞれの特徴を持ちながら、32曲それぞれ完成度が高く、全体でベートーヴェンの世界を構成している。その中には、勇ましくなく、精神性追求というのでもない小規模な曲があって、ベートーヴェンが日常の気持ちを書きつけた日記のようで親しみを感じる。こうした曲もあることで、ベートーヴェンの世界に奥行きが出ていると思うのだ。  2曲のソナチネは、弟子のために書かれたという「二つのやさしいソナタ」であり、小曲の中の小曲である。ピアノを習った人にとっては、「ソナチネ」集の中にある曲として子どもの時に練習した曲だろう。いわば、32曲の中でもソナタの範疇に入らない、子ども向けの練習曲と思われている。私もそう、ベートーヴェンだけれど内容の薄い曲、少々詰まらない曲、という印象でいた。  そんな2曲のソナチネだが、10年近く前、アンドラ―シュ・シフのCDが出たのを聴いて、すっかり考えが変わった。特に短調の曲は、落ち着いたテンポで、一つひとつのフレーズが丁寧に歌われ、アドリブの装飾も加えられて、憂愁の小品になっていた。こんな曲だったのか、言いたいことがある曲だったんだ。ECMの録音も、少しフォルテピアノっぽい乾いた響きで、印象をより良くしていたのかもしれない。シフの全集の中でも、繰り返して聴く曲になり、シフという演奏家にも注目することになった。 そのソナチネは、演奏会にかけられることがおよそ無い。それが小菅によって取り上げられ、中期の曲の中でも好みのヴァルトシュタインソナタとの対比のプログラムだ。小菅ならつまらないはずがない、いったいどう弾くだろうか。大きい期待をもって臨んだ演奏会である。  小菅は、はじめに2曲のソナチネを4楽章の曲のように続けて弾いた。やはり、子ども向けの曲という演奏ではなかった。少しテンポを揺らしたり、左手右手の掛け合いを目立たせたり、ちょっとずらしてみせたり、アドリブを入れたり、と楽しませてくれた。この曲はこんな曲ですよ、こんなふうに弾くと本質が見えるでしょう、という演奏で面白かった。もっと細かく表現したかったかもしれない。会議場の多目的ホールで、会場に響きが無く、響きを確かめながらのウォーミングアップという感じもあった。  ヴァルトシュタインは、凄い演奏だった。ソナチネとはまたギアが変わった感じであった。  小菅という人は、音楽に対して主体的で、能動的。どの一小節にも常に自分の意思を持って演奏をする。その意思が自己流のトンチンカンというのでは困るが、真っ直ぐに自然体で曲に対面していて、新鮮かつ説得力のある解釈になっている。そして、それを演奏として実現することができる髙い技量がある。リズム感も抜群に良いのだろう、とても音楽的だ。CDのベートーヴェン第1集、第2集を聴いてそのように思っていたが、実演でも裏切られなかった。  スケールが大きいダイナミックさ。早い箇所も指がよく回って豊かな響き。それが表面的な表現でなく、曲の構成の一つひとつの部分になっていて、心に響く内実があるのだ。  音楽的で惹き込まれる演奏、才気あふれるスリリングさ、小気味良い音のタイミングの適切さ。マルタ・アルゲリッチのよう、と言ってしまうと陳腐になってしまうが、アルゲリッチを引き合いに出したくなる面白さ。小菅独特の個性だ。  演奏が終わり、ふぅーーー、と溜めていた息を吐いた。良い演奏だった。  小菅 優の今年3月に出されたCD、ベートーヴェンの第3集を、山野楽器で演奏会直前に買った。演奏会曲目の3曲のほか、作品7の第4番、作品28の第15番「田園」、作品79の第25番、作品81aの第26番「告別」が入っている2枚組だ。  演奏会以前にCDで聴いてしまうと、どうしてもそれをなぞって聴くようになってしまう。そのため、ずっと買わずにいたものである。  今日になってCDを初めて聴いた。ソナチネは、より精緻になっていた。テンポやアドリブなどの表現の個性は、昨日の演奏会と同じであった。  小菅自身の解説文で、「作品49の2つのソナタは「やさしいソナタ」とされ、大体"子ども"が通る道になっていますが、なかなかどうして中身は"大人"です。特に1番は数少ない短調のソナタのひとつで、その「影」というか、暗い「訴え」をつかむのは決して「やさしい」ことではありません。(後略)」とあった。  やはり、小菅はソナチネをちゃんと中身があるものととらえ、それを演奏で表現しようとしていた。だから、曲の本質をつかんで差し出すような演奏になるのだ。  小菅のソナチネを聴き、シフのCD(ECM盤 (P)2006)を改めて聴いた。シフの演奏は、繊細でニュアンスが豊か。やはり良い演奏だ。こちらももちろん、子ども向けと思っていない。  さらに、フリードリヒ・グルダのAmadeo盤((P)1968)を聴いた。グルダは、レコードを学生の頃繰り返して聴き、私にとってスタンダードのベートーヴェン演奏になっている。グルダの第4番、「田園」、第25番、「告別」も好きだったなあ。  久しぶりに聴くグルダのソナチネは、ゆっくりしたテンポで、遠くから曲を眺めるような客観的な演奏だ。即興のフレーズは入れず、楽譜に忠実、抑制的だ。あのジャズへの志向が強く、コンサートで即興を入れ、自作曲を演奏したグルダが、と思うと何やらおかしい。どうとでも演奏できたはずなのに、ここでは妙に大人しい。全集の中で、力を入れずにさらりと演奏した、という感じだ。  小菅もシフも、遠くからではなく、ずっと近いところ、自分自身の気持ちでソナチネに向き合っている。グルダの演奏から半世紀近く経っている。演奏というものの流れが変わってきているということか。世の中全体がそうだが、半世紀前に比べ何事も細かくなっている。大局を大づかみする視点だけでは済まなくなっている。ベートーヴェンという古典を演奏する小菅の姿勢も、自ずと現在の時点のものになっていると思える。聴く者にとっても、そこに同時代を感じとり、面白いのだ。  また別の見方だが、もしかして、子ども時代の習った時にこの曲を好きだったか、そうでなかったか、の違いもあるだろうか。フリードリヒ少年は、思い入れを持たなかったのかもしれない。優ちゃんやアンドラーシュ君は、結構好きだったのかな。これは単純すぎる仮説か。  ソナチネのことばかり書いたが、ワルトシュタインや他の曲も小菅の演奏は大変面白い。何回か聴きかえし、じっくりと楽しみたい。