2015年2月1日PMS合唱団演奏会の3曲 2014年12月

 現在、所属するアマチュア混声合唱団「PMS合唱団」は、2015年2月1日の演奏会を目指して練習している。  演奏するヘンリー・パーセルの「メアリー女王のための葬送音楽」、モートン・ローリゼンの「永遠の光」、W.A.モーツァルトの「レクイエム」(レヴィン版)の3曲の紹介を書いてみた。  はじめの2曲、パーセルとローリゼンは、独唱も入らず、合唱の原点であるハーモニーの美しさを聞いていただく曲である。  パーセルは17世紀イングランド、バロック時代の作曲家だが、協和音だけでなく不協和音を多用して葬送の悲しみを表現している。不協和音というと、モーツアルトの弦楽四重奏曲「不協和音」が有名で、その時代から使うようになったように思っていたが、ずっと昔から使われていたのだった。確かに協和音だけの進行では、美しくても単調になってしまう。それにしても、それまでの定型を破った和音進行や旋律の飛躍を用いているところにパーセルの革新性があるらしい。そうした技巧を使うことで痛切な哀悼の情を表現しているのだが、歌う側としては、こんな昔の時代に厳しくぶつかり合う音を使って感情表現をしていたのか、という発見がある。  ローリゼンは1943年生まれのアメリカの作曲家である。現代の人だが無調音楽などではなく、ポリフォニーのやや古風な合唱曲を多く作っているようだ。「永遠の光」は、ラテン語教会音楽の詞文から lux、lumen、lumine といった「光」という言葉が入った五つを選び作曲した組曲である。こちらも協和音だけでなく不協和音を多く用い、合唱の各パートの音がそこかしこで繊細、微妙にぶつかり合いながらも美しく進む、全篇これハーモニーの曲である。  曲の冒頭からして、上のパートから順にソ、レ、ド、ミで、アルトのレがテノールのド、バスのミと長二度(間隔が全音)でぶつかり、微妙な不安定感をもたらす。「間違って歌っているのでは」と聞こえるかもしれない。汚い音にしないために純正律で歌う、という指導もあった。長二度はまだしも、短二度(ドと♭レのように半音)でぶつかる所も。そうなると音が一層衝突して、歌う側も自分が間違っている気持ちになる。  こうしたハーモニーを聞いていただくため、無伴奏で合唱だけのアカペラの箇所も多くある。合唱各パートは和音と苦闘することになるが、歌いがいのある美しい曲だ。  休憩後はメインのモーツァルトだ。  モーツァルトの「レクイエム」は美しい旋律の名曲で、私も鑑賞する側で長く親しんできた。歌ってもまた胸に迫ってくる音楽で、やはり良い曲である。  この曲がモーツァルト最後の作曲で、未完のまま残され、弟子のジュスマイヤーが補筆して完成させたことはよく知られている。CDでも演奏会でも、多くはジュスマイヤー版である。  往々にして、曲後半、Lacrimosa の途中以降はジュスマイヤーの補筆のように言われるが、話はそう単純ではない。実のところモーツァルトが真に完成させたのは最初のRequiem aeternaの1曲だけ。2曲目のKyrie以降は、曲前半であってもオーケストレーションをジュスマイヤーが行っている。一方、モーツァルトは曲後半でも全体(Domine Jesu、Hostias、Agnus Dei)や一部モチーフ(Lacrimosa、Sanctus、Benedictus)のスケッチを結構残しており、また弟子に指示をした可能性もあるようだ。本人の意図とジュスマイヤーの創作が混然とし、錯綜している感がある。謎が残るが、でも名曲だ。  ただ、ジュスマイヤーの補筆への批判は昔からあって、様々な代替案が出ている。今回の演奏会は、アメリカの作曲家ロバート・レヴィンの1991年の補筆版で行う。レヴィンは、ジュスマイヤー版を基本にしつつ、一部を変えている。最も目立つ違いは、Lacrimosa の後に、Amen のフーガを1曲加えていることだ。この Amen フーガのモチーフも、モーツァルト自身が16小節ほど合唱4パートのスケッチを残しているのが近年発見され、これを使って展開しているもので、レヴィンの勝手な創作ではない。その他の曲もジュスマイヤー版を少しずつ改作しており、うっかりすると間違えそうになる。  そんなレヴィン版だが、耳慣れたモーツァルトの名曲が新鮮に響き、「あれ、こんな音楽だったかな?」という瞬間があれば、歌う側として幸せだ。