2016年3月12日PMS合唱団演奏会のレクイエム2曲 2015年12月

 所属しているPMS合唱団で2016年3月12日の演奏会に向けて練習している、2曲のレクイエムを紹介する。 ■ガブリエル・フォーレ「レクイエム」ニ短調 op.48  フォーレ(1845-1924)は、御存じのとおりフランスで生まれ、学び、パリのマドレーヌ教会でオルガニスト、フランス国立音楽・演劇学校の教授をしながら作曲家として活躍した人だ。「レクイエム」は中期の作品で、1888年に初演された。モーツァルト、ヴェルディのそれと並んで三大レクイエムと呼ばれ(わが国固有の言い方なのだろうけれど)、傑作として人気があるのはご承知のとおり。  7曲からなるが、4曲めのソプラノ独唱によるPie Jesuが構成上も音楽上も中心になっていると思う。Pie Jesuは大変美しい旋律だ。ボーイソプラノまたは透明感ある女声ソプラノで宗教曲らしく歌われると大変結構である。独唱でなく、女声ソプラノ合唱が歌う珍しいCDも聴いたが、それもまた悪くなかった。  合唱を再開する以前、鑑賞の立場としては、このレクイエムで聴いているのはもっぱらPie Jesuで、前後の合唱の曲をあまり聴いていなかった。何か合唱が歌っているな、くらいの感じ方で、旋律が記憶に残っていなかったのだ。ところが合唱で歌ってみるとPie Jesu以外の曲もそれぞれ良くできた音楽であり、自分の聴き方の浅さがお恥ずかしい。  フォーレは、無調音楽が出てきた時代の人であり、レクイエムもその要素を取り入れつつ、基本は調性を保った音楽になっている。無調的な要素というのは、例えば2曲目のOffertoriumで感じることができる。ロ短調で始まるが、オルガンと弦の序奏、合唱アルト、テノールのカノンは、調性があいまいな感じの旋律だ。しかもカノンは長2度ずつ音程を上げて3回繰り返され、何やら霧の中を行くような浮遊感がある。3回目のカノンでわれら合唱バスも加わるが、出だしの音程が少々とりにくい。が、そんなところに、この作曲の新しさを感じる。  PMS合唱団は、先月11月4日にパリ・マドレーヌ教会でこの曲の演奏会を行った。まさしく、フォーレがオルガニストを勤め、レクイエムの初演も行われた教会そのものだ。高い天井で残響が大きく長い会場だった。その主祭壇上、「聖マグダラのマリアの歓喜」像の前に立って歌うのは、感慨深いものがあった。まずまず納得できる演奏だった。 (演奏会をどなたかがvimeoサイトにアップしてくれています。→こちら)  演奏会の翌週、昼食を食べたパリ北マレ地区の小レストラン*で、地元の常連とおぼしき70歳くらいの男性と相席になった。メニューがわからないでいるのを英語で助けてくれたことがきっかけになって、少しおしゃべりをした。マドレーヌ教会でのフォーレ・レクイエム演奏の話をしたところ、クラシック音楽を聴く人であったようで、「マドレーヌ教会のオルガンは、パリのたくさんの教会のオルガンの中でも良い音で、自分は好きだ」「フォーレのレクイエムは悲しい音楽(sad music)だ」と言っていた。   *"Chez Nenesse" 17 Rue de Saintonge, 75003 Paris    フランス家庭料理のビストロ。値段も手ごろ、美味しい昼食でした。  演奏会で使ったオルガンは主祭壇の小オルガンで、教会入口上部(主祭壇からは最後方)の大オルガンではなかったが、確かに良い音であった。「悲しい音楽」というのは、そうなのだろうかと思い、自分の考えを伝えてもっと話してみたかったが、英語力の不足であきらめてしまった。  悲しい音楽というのも様々ある。チャイコフスキーの涙の悲しさもあれば、シューベルトの孤独の悲しさ、ベートーヴェンの孤高の悲しさもある。モーツァルトの子どものような透明な悲しさもある。  フォーレのこのレクイエムはどうなのか。短調で始まるが、長調への転調が多く、最後も長調の温和な曲で終わる。美しい抒情的な旋律があちこちにあるが、死者を悼む悲しみの感情をそのまま出してはいないと感じる。悲しみは底流にあって、安息を祈る音楽、救いを信じる音楽であるように思う。  あるいは、この曲で身近な人を葬送した個人的な思い出があるのかもしれない。そのように考えると、温和に癒してくれるような長調の終曲が、限りなく悲しい音楽に聞こえてくる。  合唱を歌って思うのは、フォーレの作曲センスの良さだ。一つひとつの音があるべき所におさまっている感がある。例えば臨時記号での半音の変化も、強弱のダイナミクスも、何故ここで?ということがなく、なるほどこうでなければと思わせる。小粋な感じがする。  やはり良い曲である。 ■ヨーゼフ・ガブリエル・ラインベルガー「レクイエム」変ロ短調 op.60  ラインベルガー Josef Gabriel Rheinberger(1839-1901) は、私は馴染みのなかった作曲家だが、ドイツ連邦リヒテンシュタインのファドゥーツに生まれ、ミュンヘン音楽院の教授、バイエルン王宮廷学長を長く務めた作曲家、オルガニスト、指揮者、教育者ということである。作曲はオルガンソナタの他、宗教曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲など広範囲で、作品番号がついた曲が197曲ある。  レクイエムは生涯に3曲作っているようだが、この変ロ短調 op.60は最も早く、26歳での作曲だ。1865年で、ベルディ、フォーレのレクイエム作曲年より少し早い。  このレクイエムは、ライベルガ―の3曲の中でも規模が大きく、演奏時間も約1時間と長い。他の作曲家のレクイエムと比べても長めだ。  この曲を合唱として歌ってみると、一曲一曲に旋律のアイディア、対位法や和声の技法など、多くの要素が盛り込まれている。強弱のダイナミクスの指示も細かく、表現がドラマチックだ。独唱だけの曲が無く、全曲で合唱が歌う。合唱側からすると、1時間の長丁場、ずっと緊張、集中を要求されて気が抜けず、終わるとどっと疲れがくる。  一つひとつが興味深い曲なのだが、全体を通すと様々な要素が盛り込まれ過ぎていて、かえって言いたいことがわからない、と感じてしまう。当方の音楽感性の不足のせいが大いにあるが、次々と押し寄せる要素を消化しきれず、あふれ流れてしまうのだ。  例えば、全体構成の中で一体どの曲がクライマックスなのだろうか。  1曲目のRequiem aeternaからして盛り上がる箇所を持つ。2曲目Dies iraeも音程の跳躍が激しい旋律で始まり、曲の長さがあって聞きごたえがある曲になっている。3曲目Recordareは穏やかでおとなしい方だが、4曲目Qui Mariamは混声6部で波のうねりのように進行する。5曲目Confutatisは合唱のフーガで始まり、Lacrymosaのフーガが続き、さらに合唱Lacrimosaの上で独唱がConfutatisを劇的に歌うという興味深い構成が続いて、Amenを繰り返して終了する。この曲が、音楽的にも歌詞の内容上も全体の山場の一つだろう。  後半も、おとなしい旋律かと思うと盛り上がりをみせるDomine Jesu Criste、勇ましい旋律でオーケストラのコーダも劇的なQuam olim Abrae、などが続き、結局10曲目のBenedictusが山場なのだろうか。合唱と独唱が交代で歌い、両者の掛け合いを経て独唱のオペラ的な上昇音階で盛り上がる。  その後は、11曲目Agnus Deiは相対的には静かな曲で間奏曲なのだろうが、12曲目Lux aeternaはffで音をぶつけるような武骨な旋律で始まる勇ましい曲だ。Requiem aeternaがこれに続く終曲だが、1曲目のRequiem aeternaを再現する主題で歌詞も共通し、循環形式で終わる。  全体を通して見ると、ある曲の主張の後にまた次の曲の主張があり、互いに相殺している感じが否めない。素朴で美しい旋律もあちこちにあるのだが、深い印象にならない。ラインベルガーは、伝えたいことがたくさんあり過ぎるのか。あるいは何かを伝えるより、楽想が次々に湧き、流れていく音楽なのか。わからない。  結局、強い色やモチーフを画面のあちらこちらに描き込んだ絵を見るようで、過ぎたるはなお及ばざるが如しという印象が拭えない。それがこの作曲者らしさなのだろうか。比較的初期の作品なので、考えられるものを全て盛り込んで試した習作ということなのだろうか。ラインベルガーの濃厚さを追求する西欧的な感性と、自分の淡白を好む日本的な感性とのギャップかもしれないが。  流麗で小粋なフォーレと比較して、地味で武骨なラインベルガー。それぞれの個性が表れたレクイエムだ。ラインベルガーの不器用さに、また親しみを感じなくもない。