2017年4月29日PMS合唱団演奏会のヨハネ受難曲 2016年9月

 PMS合唱団の次回演奏会の演目は、J.S.バッハの「ヨハネ受難曲」BWV245だ。練習が進み、全体を見渡せるところまで来たので、自分なりに調べたこと、考えたことをまとめてみる。 ■ヨハネ受難曲という存在  J.S.バッハ(1685-1750)は、クラシック音楽の歴史の中、そびえ立つ大建築である。その宗教曲群は、合唱の分野でひときわ存在感がある。合唱をやるからにはいつかバッハを歌いたい、と願っていた。合唱に多少慣れてきた今、所属する合唱団で取り上げてくれたことは大変ありがたい。  ただ、せっかくなら「マタイ受難曲」であればなお良いのに、などと思ってしまった。あるいは、ドイツ語を一から始めるのも大変なので、ラテン語の「ロ短調ミサ曲」だったら、とも。バッハの宗教曲の大曲の中で、日本ではマタイとロ短調の評価が高く、ヨハネは少し地味な印象なのだ。  しかし、バッハ及びキリスト教について何冊か書物を読み、練習が進むにつれ、ヨハネ受難曲の良さがじわじわとわかってきた。さすがのバッハ、なるほどのヨハネである。ヨハネ受難曲は、長短合わせて40曲からなるが、演奏を何度か聴き、自分で合唱を歌うと、どれもが良い曲で、音楽としての総合完成度がとても高いと感じる。  しかしながら、何せ通すと2時間、CDでは2枚の長さだ。聴く立場で敢えて言ってしまえば、眠気を催して聴き通すのが難しい曲、でもある。  ヨハネ受難曲を初めて聴く人に、40曲全てが良いから聞き逃すな、と言ってもそれは無理というもの。集中力を持続できない。途中、眠くならないためには、いくつかの曲に注目する、メリハリをつけた聴き方をお勧めしたい。  どの曲に注目すべきか。独断だがこれらの曲を推したい。 第1部:1番、3番、7番、11番、12番c、13番、14番 第2部:22番、30番、32番、35番、39番、40番 ■曲の構成  そもそも受難曲というのは、新約聖書中のマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されているイエスの十字架上の死に至る受難の伝記に音楽を付したものであり、ルネサンス以前から作られてきた。バッハのヨハネ受難曲もその伝統上にあり、ヨハネ福音書を基礎にして作られ、1724年に初演されている。  私は、キリスト教の信徒でなく、イエス受難のエピソードについても断片的に知るだけだったので、この機会にキリスト教解説書を何冊か読んだ。また、新約聖書についてもヨハネ福音書だけだが初めて読んで、曲の背景を少し理解した。合唱を歌うにも、知識は最小限であれ必要だ。  バッハのヨハネ受難曲の構成を、雑駁ながら自己流で説明してみる。  まず、40ある曲を大きく二つに分ければ、キリスト受難の「物語」の曲が29曲、ドイツ語による讃美歌である「コラール」が11曲ある。この2種類の曲が入り混じって進行する。(32番は「物語」の29曲に分類したが、バス独唱のアリアに並行して合唱のコラールが歌われる。二つの分類にまたがる曲だ。)  先に、「コラール」について説明する。コラールは、16、7世紀に作られたドイツ語歌詞の讃美歌で、これをバッハが四声に編曲したようだ。例えば第5番は、原曲は他ならぬM.ルターの作である。  コラールはどれも短い曲で、凝った技法ではなく、四分音符中心の素朴な旋律の四声が並行して進む。どの曲も協和音の素直な和声が美しく、ゆっくりとしておごそかな雰囲気だ。私たち合唱も、コラールを歌う段になると何だか和やかな気持ちになる。もっとも、和声の基本課題のようなシンプルな曲だけに、合唱の音程の精度が悪いと、それ相応の出来になってしまう。気を抜くことなく、どこまでも美しいハーモニーを目指したい。  礒山 雅氏の著書「マタイ受難曲」によれば、プロテスタント・コラールは、ルター派の礼拝の要所要所で歌われる重要な柱で、人々は幼い頃からそのレパートリーに親しみ、旋律も歌詞も、ほとんどそらで覚えていたという。物語の合間にその場面に関連した歌詞のコラールが入る、そうした受難曲の構成は、バッハ以前からの習慣だったようだ。聴衆にとっては、物語部分で難解な音楽が続く中、コラールではよく知った旋律が聴こえてき て、ほっとする瞬間だったのだろう。  バッハの時代、受難曲はホールの演奏会で鑑賞される音楽ではなく、年に一度、聖金曜日(イエスの死の日)に執り行われる教会の典礼の一環であった。福音書の受難記事の朗誦の意味で演奏され、第1部、第2部の間には説教が挟まれた。バッハは、ルター派教会の教会音楽家として、毎年、自ら作曲した受難曲、他の作曲者の受難曲を演奏したのだ。  その中で、コラールは、受難記事に関する教義を提示し、聴いている信徒たちがこれを共有する重要な役割を担っていた。コラールが間に入ることで受難曲の構成が重層的になっているが、それ以上に、コラールこそが受難曲の中軸をなしている、という聴き方もできるのかもしれない。  コラールの11曲は、同一の旋律を繰り返しているわけではないのだが、似通って聞こえる。どれもが四分音符中心でシンプルな和音進行、ゆっくりした速度であるためだろう。しかも、実は3番と17番、14番と28番(と32番)、15番と37番は、それぞれ同一の讃美歌が原曲である。何やら聞いたような、と感じて当然なのだ。  とはいえ、歌ってみると曲ごとに個性がある。いたずらであだ名をつけてみた。  3番「慈愛」、5番「厳粛」、11番「賛歌」、14番「ペトロ事件の意味づけ」、15番「序曲」、17番「厳・悲・暗」、22番「感謝」、26番「昔の校歌」、28番「説明調」、37番「間奏曲」、40番「天空へ」  どれも良いが、3番、11番、14番、22番、40番はとりわけ良いと思う。  次に「物語」の29曲だが、ヨハネ福音書に記されている受難記事のプロットを物語っていく曲群である。これをさらに分けると、「台詞」部分と「解説」部分がある。  「台詞」は、ソロで歌われる語り手のエヴァンゲリスト(=福音書の記者であるヨハネ)の語りの曲、イエス、ピラトら登場人物の台詞の曲がある。福音書から言葉をとって語り、台詞にしている。  ソロ歌手で一番活躍するのはエヴァンゲリストで、登場人物の台詞の間をつないで比較的長く歌う。これは感情を出さないナレーションではなく、感情を込めた語りになっている。中でも、後述のペトロの悔悟の場面、切々と歌われる12番cが聞きどころだ。他の登場人物は、物語の主人公であるイエスも含めて、台詞は短いものが多く、また言葉が主で、旋律は従というつくりになっている。  合唱も、群衆の台詞の曲を担当する。イエスを弾劾するユダヤ教徒たち、処刑する兵士たち、といった群衆だ。曲も「十字架につけろ!」と叫んだり、嘲りや揶揄の言葉だったりで、美しく歌い上げるのでなく、場面に応じた歌い方が要求される。急速な曲も多いので、上手に表現することがなかなか難しい。  ということで、台詞のジャンルの初めに注目すべき曲は、12番cだけにとどめる。  「解説」というのは、これまた私の便宜的な呼び方で正確でないのだが、「台詞」の曲以外の合唱曲やソロ歌手のアリアを指している。バッハ自身か、別の作者かによって書かれた自由詩の歌詞で、受難の各場面を説明・解釈したり、後世の信徒の立場で信仰を述べたりして、キリスト教の教義を解説して聴衆に伝える部分である。こちらは、比較的長い曲で旋律も美しく、音楽的感興が豊かな曲が並ぶ。いくつか紹介する。  まず冒頭、第1番の合唱は、受難物語の全体を俯瞰するような序曲であり、繰り返しもあって少々長く、存在感がある。イエスの受難物語がこれから始まる、その受難には大きな意味がある、と告げる音楽になっている。  第1部では、あと7番のアルト・アリアが前奏も含めて美しく、好きな曲だ。後述するが、13番のテノール・アリアも良い。  休憩後の第2部では、30番のアルト・アリア、32番のバスに合唱コラールが加わるアリア、35番のソプラノ・アリアがよろしいと思う。35番アリアは、バッハの時代のようにボーイ・ソプラノによって歌われたら、一層印象深くなるのだろう。また、終曲の一つ前、39番は、合唱が「安らかにおやすみください」と繰り返す、美しい子守歌の旋律が印象的だ。歌う側としては、過度に感傷的にしない合唱を心掛けている。  「物語」の29曲は、①イエスの捕縛の場面:1~5番、②イエスの連行とペトロの否認の場面:6~14番、③ピラトの審問・裁判の場面:15~26番、④十字架上のイエスの場面:27~37番、⑤イエスの埋葬の場面:38~40番と、五つの場面が順に進行していく。  ここで、興味深いのは、②でペトロの否認と悔悟(イエスの筆頭の弟子ペトロが「自分はイエスの弟子ではない、知らない」と裏切ってしまう場面)、③でピラトの逡巡(ローマ帝国の総督ピラトが、イエスに反逆の罪は無いと考えながらも強硬なユダヤ教祭司長たちについに同意していく場面)が、それぞれ何曲も使って丁寧に描かれていることだ。ヨハネ受難曲はイエスの受難劇であるのは言うまでも無い。が、その本筋から脇道に入って、この二つの人間ドラマが予想外に大きく取り上げられている、という感がある。  ②の場面を例にあげると、10番、12番a~cでペトロがイエスを三度否認し、12番cの後半、エヴァンゲリストが「ペトロはイエスの言葉を思い出し、外へ出て激しく泣いた」と半音の進行で痛切に歌う。さらに13番のアリアでテノールが「ああ私の心よ、最後にはどこへ行こうとしているのか」とペトロの悔悟をひしひしと歌い上げる。この部分は、実はヨハネ福音書では短くさらりとした記述なのだが、バッハは敢えてマタイ福音書の記述を取り入れ、踏み込んだ描写にしている。  ③の場面に関しては、バッハ研究者F.スメントの説が興味深い。22番コラールを軸とするシンメトリー構造に注目している。合唱の台詞の曲の、18bと23f、21bと25b、21dと23d、21fと23b、これらの対はそれぞれよく似た旋律である。前者の旋律を編曲して後者で再び使い、相互の関連を暗示しているのだ。スメントは、ピラトの審問を描いたこのシンメトリー部分こそがこの作品の内容上の重要部分であり、特に22番が中心、と解している。  ぺトロもピラトも、いつの間にかどうしようもなくイエスとすれ違って行く。ありがちな、人間の弱い姿だ。バッハは、決して愚かな存在として二人の人物を切り捨てるような表現をしていない。人間の、ありのままの普遍的なありようとして、二人に共感を寄せて扱っていると感じる。この箇所では、歌う者も、聴く人の多くも、二人の人物に思わず自分を重ねてしまうだろう。  ペトロやピラトは象徴であって、われわれ弱い人間たち全てがイエスの十字架刑の死に加担する存在であり、同罪なのだ、とバッハはメッセージを発しているように思う。  そして、②について言えば、14番のコラールで、全てを了承した上で悔い改めをうながすイエスの存在を示して意味づけ、ペトロのエピソードを結んでいる、と考える。このコラールをもって第1部を終えている。  ③については、スメントが最重要とする22番コラールに注目すると、イエスが囚われることによりわれわれの罪が贖われたのだ、と意味づけていることになる。  物語の構成で、もう一点よくわからないのが結末部分である。受難物語の結末としては、キリスト教の教義の根幹である「イエスの復活」が描かれて然るべきと思うのだが、そうなっていない。イエスの十字架上の死のあと、埋葬の場面で終わっているのだ。39、40番に、復活を前提にしたと思える言葉が入ってはいる。が、直接の表現は無い。  復活はキリスト教徒の誰もが了解している当然の概念なので、改めて表現するまでもない、ということなのか。イエスの死のその日(聖金曜日)に上演される受難曲だから、あくまでも受難に限定して描くのか。  40番コラールは、後世の信徒の立場から、(復活した)イエスによる救済への信仰を歌い上げ、終曲としている。 ■合唱を歌う立場から  さて、では合唱で歌う立場から、ヨハネ受難曲はどういうものか。  歌いがいのある作品である。「コラール」と「物語」、さらに「台詞」と「解説」。バラエティある構成だが、それぞれに曲の内容と音楽が高次元で結びつき、高い完成度になっている。この素晴らしい音楽を歌うことができるのは、人生の一つの幸せかもしれない。そんなことまで思うことがある。  合唱として歌うことは、長大な作品なので大変ではあるが、音を取る段階では格別難しいわけではない。特に私のバス・パートは、取りにくい音がほとんど無く、比較的メロディアスなので覚えやすいのだ。一方、内声部のテノール、アルトは、メロディアスでない、取りにくい音がかなりあって、難しそうである。バスで良かった!  ただ、同じようなフレーズだがちょっとだけ異なる、というパターンがよく出てきて間違えやすい。これは、バッハを歌う難しさの一つかもしれない。フレーズとして覚えてしまうほかない。例えば、24番ではバス・アリアに合唱が "Wohin ?" どこへ? と上昇2音で何度も合いの手を入れるが、これの音程とタイミングが取りにくく、難度が高い。合唱が3パートだけで、われらバスは休み。ありがたいことだ。  バッハの行った上演では、合唱は聖トーマス教会の寄宿生たち、聖トーマス教会合唱団が歌った。教会では、毎週毎週、新たなカンタータが歌われたという。次々と作曲したバッハもすごいが、これを演奏した合唱団もまた大したものだ。バッハは時に不満を漏らしていたらしいが、技量は相当高い水準だったのだろう。"Wohin ?" も、涼しい顔で歌っていただろうか。それとも、トチってバッハに顔をしかめられていたのだろうか。  私にとって、難しいのはドイツ語の歌詞だった。私はこれまでドイツ語学習の経験が無く、合唱でも昨シーズンのオルフ「カルミナ・ブラーナ」の歌詞の一部がドイツ語だったという程度で、ゼロからのスタートであった。子音・母音の発音を口に慣らし、歌詞の単語を音符に乗せるのに、だいぶ練習が必要だった。  ドイツ語は、長母音・短母音の区別があり、例えば同じ四分音符であっても音の長さに反映させることになる。長母音を識別できるよう色分けしなさいとの指導があり、少々戸惑った。ドイツ語の面倒なところだが、CDでドイツ語圏合唱団体による演奏録音を聴くと、なるほど区別をしている。アクセントの音節位置と合わせて、長母音・短母音は常に意識して歌う必要がある。それによって、楽譜に表記されていないアーティキュレーション、フレージングができ、歌詞の言葉に沿った表情が生まれる。その練習をしていくことで、板についた歌い方になり、表情のある歌唱になっていくのが面白い。  歌詞の内容については、キリスト教徒でない自分は、一定の理解はするものの、外から距離を置いて眺める立場だ。信仰からではなく、音楽への共鳴から歌っている。それでも、この曲の中に、バッハのキリスト教徒としての真実があることは感じ取れる。無信仰の者は、厳密には歌う資格が無いかもしれないが、ご容赦願いたい。  今後、練習をさらに重ねて合唱を仕上げて行きたい。  1番、39番といった長い曲で、平板にならない表情ある合唱ができるか。台詞の曲で、急速テンポでも言葉に見合う感情表現ができるか。コラールで、美しいハーモニーができるか。全体に、ドイツ語らしい発音に聴こえるか。  そんなチェックポイントで合唱を聴いていただくと、退屈しないだろう。本番の演奏会で、われわれの合唱がこれらを実現できれば幸いである。  それができていれば、指揮に率いられ、独唱、オーケストラとあいまって、ヨハネ受難曲の良い演奏に到達できるだろう。そうありたいものだ。