2022年6月11日PMS合唱団演奏会のモーツァルト、シューベルト 2022年3月

 PMS合唱団の今度の演奏会は、モーツァルト(1756-1791)「ミサ曲 ハ短調 KV427(417a)」とシューベルト(1797-1828)「スターバト・マーテル D383」の2曲だ。  もともとは演奏会開催を2021年中に予定していたが、新型コロナウィルスの度重なる波状の感染拡大により延期を余儀なくされ、やっと6月11日に開催を予定している。この間、合唱団の練習もマスク着用などの感染対策をしつつ行い、それも断続的になって2年を越える長期の練習になった。  「ミサ曲 ハ短調 KV427(417a)」は、近年の研究で1782年末から翌年にかけて作曲されたと言われる。どういう事情だったのか、ミサ曲としての構成からすると未完のままになっている。モーツァルトの宗教音楽としてレクイエムに次ぐ有名な曲だそうだが、私はレコード・CD、演奏会で聞くこと無く来てしまい初対面だ。  通常は、未完のまま、「キリエ」、「グローリア」、「クレド」、「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」の5曲の構成で演奏される。4曲はモーツァルトにより完成されたが、「クレド」は未完で数種類の補筆版がある。  今回我々が演奏するのは、アロイス・シュミット版(1901年)で、旧モーツァルト全集に採用されていたものだ。ミサ曲として完結させるため、「クレド」の不足する曲を他のモーツァルト宗教曲から転用して加え、さらに第1曲「キリエ」の旋律をそのまま使った終曲「アニュスデイ」を加えている。他の補筆版は、「クレド」を最小限の補筆により整えたもので、ミサ曲としては未完のままにしている。新モーツァルト全集は、エーダー版(1983年)が採用され、シュミット版は演奏会や録音で使われることが稀になっている。今回の演奏会では、ミサ曲として完成形であることを重んじてこの版を採用したと思われる。  このミサ曲ハ短調は、モーツァルトの他のミサ曲が短く淡白な感じであるの対して、編成、1曲1曲の長さなど規模が大きく、未完のままでも「大ミサ曲」とも呼ばれている。これの完結版なので本当に大曲だ。  実を言えば、この曲についてはさほど良い曲と思っていなかった。コロナのせいで練習期間が2年以上になり、正直なところ飽きて無気力な気持ちにまでなっていた。  が、最近になってオーケストラ、独唱も入った演奏を聴き、印象が全く改まった。F.フリッチャイ指揮(1959年録音、ランドン版)、P.ヘレヴェッヘ指揮(1991年録音、エーダー版)だが、それぞれモダン楽器とオリジナル楽器の良い演奏だ。オーケストラ、独唱も入ると、モーツァルトの作曲の意図がようやくわかってきた。テンポや強弱による表情が豊かで、凝らした趣向が効果を上げており、また独唱部分がポリフォニーとの対比で立体的、劇的になっていて素晴らしい。  映画「アマデウス」で、サリエリがモーツァルトの自筆楽譜を手にして、自分と隔絶した天才を見てとり絶望する印象的なシーンがあった。そこで流れていたのが、このミサ曲の第1曲「キリエ」のソプラノ独唱が、"Criste, Criste"とドラマチックに3オクターブ跳躍する箇所であり、この場面に合っていた。(まあ、数あるモーツァルトの名旋律の中で、これがサリエリを打ちのめす代表とも言えないと思うが。)  全体構成の中で、合唱はほんの一部だったのだ。なるほどモーツァルトの集大成のミサ曲であり、世評が高いだけのことがある。合唱部分だけで曲に接していて、曲の全体を知らないままのヘボ合唱団員でお恥ずかしい限りだ。それがわかり、改めて強力なモチベーションになった。飽きるどころではなかった。  この曲は、モーツァルトがザルツブルク大司教と衝突し解雇された後の曲で、仕事として、義務としてのミサ曲作曲ではなく、自発的なものだったという。ソナタや交響曲と違うポリフォニーのミサ曲を、気持ちを新たに作曲する、ということだったのかもしれない。さまざまな趣向を凝らし、気合が入っている。  合唱を歌って面白いのは、ソプラノ独唱と合唱の対比の第1曲「Kyrie」、合唱が第1、第2に分かれ八声になる第6曲「Qui Toris」と第16曲「Sanctus-Osanna」だ。第8曲の「Jesu Christe-Cum sancto spiritu」は合唱バスにも長く連続するメリスマがあって、歌う側にとっては難所だ。  もう一曲の「スターバト・マーテル D383」は、シューベルトが作曲に専念するようになった1816年、まだ若い19歳の時の作品だ。  「スターバト・マーテル」は、カトリックの聖歌の一つで、一般にラテン語歌詞が使われ、イエスが磔刑に処された場で、十字架の傍らに立つ母マリアの悲しみを内容としている。が、このシューベルトの曲は、ドイツの詩人F.G.クロプシュトック(1724-1803)のドイツ語歌詞を使っている。ラテン語歌詞をドイツ語に訳したものではなく、全く独自な詩だ。始まりこそマリアの悲しみだが、その後は(復活を念頭に置いての)キリストの恩寵についての言葉になっている。それがキリスト教の普遍的な教えなのか、クロプシュトック個人の解釈なのか、プロテスタントのためということなのか、キリスト教門外漢にはわからない。シューベルトに何か特別の意図があったのかどうかもわからない。歌う側とすると、曲の背景を知っておきたいのだが、根本のところがわからないままだ。  それはともかくとして、音楽としては合唱の曲、独唱の曲が交互に並び、合わせて12曲からなる。合唱曲は和声・ホモフォニーの曲と対位法・ポリフォニーの曲が混じっているが、後者もそれほど複雑な対位法ではない。発展途上のシューベルトがポリフォニーも取り入れて宗教音楽を作ってみた、ということだったのか。  シューベルトは大好きな作曲家だ。晩年の曲は個人的、内面的要素が強く出て、現代人に通じる新しさがあると思う。晩年のミサ曲変ホ長調D950を2014年に歌ったが、ミサ曲という形式にもかかわらず、シューベルトの内面が多少感じられた。この「スターバト・マーテル」は、まだまだそうした特徴は出てきていない。  歌う立場からは第5曲が、合唱各パートが二つに分かれて女声・男声の掛け合いがあり、複雑に作りこんであって面白い。  演奏会まで3か月を切ったが、新型コロナは今後どうなっていくのか。演奏会は通常の形での開催は難しいだろうけれど、どんな形でできるか。懸念はあるが、できるかぎり良い演奏になるよう仕上げていきたい。