伊藤 恵とA.シフのシューベルト ― D894、D960のCD 2016年1月

 昨年前半だが、伊藤 恵とアンドラーシュ・シフが相次いでシューベルトのピアノ作品の新録音を出した。D894、D960の二つのソナタが共通して入っている。  伊藤 恵は、ここ数年シューベルトの作品集を出していて、今回のCDはこれで終結と思われるが、6枚目である。私はシューベルトのピアノが好きなので、伊藤 恵という人の演奏はどうだろうかとずっと興味があったが、このCDでようやく初めて聴いた。  演奏は、表情が豊かで、こちらの心に沁み込んでくる。良い演奏と思った。全体に遅めのテンポで、一つひとつの音、フレーズを丁寧に、心をこめて弾いているという印象を持った。  心のこもった演奏というのも様々な形があろうが、伊藤の演奏は無私の精神で弾いている演奏と感じられた。  クラシック音楽の演奏では、演奏家はそれぞれのあり方で作品に対峙しているのだろう。楽譜を通して作曲者と対話し、曲に込められた感情、意識、精神を受け取り、自分の理解、共鳴があって作品を再構成し、演奏として外界に出していく。そんな過程がそれぞれの演奏家にあるのだろうと想像する。作曲者自身による演奏があれば、それは確かに作曲家の意図そのものの表現であるから、演奏の一つの標準になるだろう。しかし、演奏家が介在することで、作曲者の意識していなかった、作品の一面を顕在化するということも大いにある。現在の演奏家達が、過去の作曲家の作品からそれぞれのし方で新たな一面を見せてくれる、それがクラシック音楽で今の演奏を聴く楽しみだ。  一方に、演奏者である自分はこう受け取りこう再構成したよ、と自分の意識・精神を強く出した演奏がある。例えば、ワレリー・アファナシエフのピアノはそのような演奏の一つの極だ。アファナシエフの「私のシューベルト」と聴こえる。シューベルトだけでなく、ベートーヴェン、モーツァルト、どれも作品を聴くとともに、アファナシエフその人を聴くことになる。自意識が強いと感じるが、とんちんかんな方向ではないと思えるので、これはこれで大変面白い。ただ、いつも聴くのはちょっと。  伊藤の無私の精神の演奏(私はそのように聴いたのだが)は、どう考えれば良いのか。演奏者たる自分の自我が前面に出ることを極力控え、作曲者シューベルトの心はどうだったのかそれに寄り添っていくことを意識しているように感じる。それにより「私のシューベルト」にせず、自分の枠を超えて普遍的なシューベルトを聴く者に届けている。ゆっくり遅めのテンポだが緊張感を絶やさずに一つひとつのフレーズを紡ぎ出していて、のんきな音楽ではないシューベルトが聴き手の心に沁み込んでくる。  無私と聴こえるのはそのように自我を消そうという意思を持っての無私であって、これこそが伊藤の再構成のし方なのだろう。もし、無個性にひたすら楽譜を機械的に弾いて外から客観視するような演奏であれば、面白くもなんともない。  雑誌のインタビュー記事などで、伊藤はアルフレート・ブレンデルのシューベルトを若い頃に聴いた体験を、演奏家として影響を受けた大きな出来事としてあげている。ブレンデルというのは興味深い。ブレンデルのシューベルトは、LPレコードや演奏会で聴く機会があったが、どうしてか私にはピンとこない、響いてこない印象であった。素人である私の音楽感性の低さに他ならないのだが。思えば、ブレンデルは自分を強く出さない演奏をする人だったのかもしれない。そのため、私には表情が乏しく感じられ、わからない演奏だったのか。  自分を抑制するという点で、伊藤はブレンデルと共通するのかもしれない。ただ、私があまり面白くないと感じたブレンデルに伊藤は大きく影響を受け、シューベルトをこれまで心の中で温めて、今、表情豊かな面白い演奏をしている。興味深いことだ。ブレンデルを改めて聴き直してみたくなった。  シフのシューベルトは、フォルテピアノでの演奏だ。これまた好ましい演奏である。  シフはピアノでの全集録音を1992~93年にしているが、今回はフォルテピアノを選んでいる。今回の曲が作曲される少し前の1820年製で、まさにシューベルトと同時代の楽器だ。モダンピアノに比べて、フォルテピアノはくぐもった響かない音が特徴だが、この録音で使った楽器は輝きが少ないという程度で、モダンピアノにかなり近づいたものだと思う。違和感があまり無い。録音マイクを楽器に近づけているのかもしれないが、強弱のダイナミクスも十分にある。  シフのシューベルトは、何だか人なつこい、親しみの持てる音楽と感じた。それはD894だけでなくD960でもそのように感じた。そう感じさせるには、フォルテピアノの音色であることも大いに関係している。大ホールでなく家庭で聴くような、親密な音楽になっている。  私がD960を聴いたはじめはスヴャトスラフ・リヒテルのレコードで、あれはまさに重く大きな音楽であった。雄大なリヒテルと対比すると、シフのD960の出だしはさりげない。その後の各楽章も親密で、ぐっと近くにある音楽だ。その分、聴く側の心にすうっと入り込んでくる。フォルテピアノを選択したことも含めて、これはシフが意図したところなのだろう。伊藤とはまた違ったし方であるが、シューベルトの心の襞を聴く者に届ける演奏である。  シューベルトの音楽は、一方に陽だまりの温和、平穏があり、もう一方に暗転した孤独、不安、寂寥があって、これを行き来する凄さ、怖さが、聴き手の心をわしづかみにする。そうした音楽の性格を反映する演奏であると、交響曲もそうだが、弦楽四重奏曲、ピアノ曲でも、一つの楽章を聴くだけでもう十分という気持ちになり、全曲を聴き通すことができずにやめることがよくある。伊藤とシフの二人もそのような演奏であり、それぞれのあり方で聴き手の心に沁みる。 (補足)ブレンデルを聴き直した  70年代前半アナログ録音の全集(その一部をLPで聴いていた)、90年代後半新ライブ録音の選集を中古CDで入手し、まずはD894、D960を改めて聴いた。(80年代後半デジタル録音の新全集は聴いていない。)  良い演奏だった。その昔、私は何を聴いていたのか。  確かに、個性を出したり、情に流されるような演奏ではない。中庸を行く演奏で、過不足なく調和が取れている。誠実な姿勢の音楽だ。やはり自我を表に出すことを抑制している印象であり、それは伊藤と共通のものだ。  しかし、かつて私が感じた、表情の乏しさという点は決してそうでなかった。表情のニュアンスはしっかり感じられ、音楽が生き生きしている。特にD894!アナログ録音も、新ライブ録音もとても良い。この曲は、昔聴いていなかった。  D960は、アナログ録音のテンポは速めと感じる。演奏が先に先に進み、私の方で中身を受け取りきれないまま、素っ気無く感じた、ということかもしれない。新ライブ録音の方はテンポを少しゆるめて、私に届くのを待ってくれる感じで、しっとりと聴かせてくれる。