合唱の発声について考える(その1) 2014年7月 補足2015年2月

*2015年2月、「共鳴腔のこと(2) -声の方向」の後に、補足として「フースラーの「アン  ザッツ」」を加えた。 ■参考資料  はじめに、参考資料から。  発声に関しては、全体を網羅してこれ1冊を読めばOK、という資料はないように思う。逆に言えば、どれも部分的には参考になるのだが。  ここでは、発声に関する書籍やウェブサイトで、これまで何らかの形で参考になったものを挙げる。この記事を書くにあたって、改めて参考にさせていただいた。 ・米山文明「声がよくなる本」主婦と生活社 1977(文庫版 1997)   臨床音声学の医学博士が書いたヴォイストレーニング本。 ・米山文明「声の呼吸法」平凡社 2003(平凡社ライブラリー版 2011)   呼吸を発声にどう関連付けるか、については、医学面からアプローチするこの書籍が最も詳しい。 ・マリア・ヘラー=ツァンゲンファイント、監修米山文明 DVD「息から声へ-マリアの呼吸法」音楽の友社 2008   発声のための呼吸を映像でエクササイズを含めてを示し、大変実践的。解説冊子は付属していないので、上記の「声の呼吸法」とセットで。 ・高田三郎「高い声で歌える本」リットーミュージック 2002   「水のいのち」の作曲家、ではなくポピュラー畑のヴォイストレーナー。発声のメカニズム、理論について比較的詳しい。 ・小林由起子「声のトレーニング」NHK出版 2004   ヴォイストレーナー。硬口蓋にある切歯窩に声を当てると声が伸び、響きが良いという説明は、具体的で参考になった。 ・清水敬一監修「必ず役立つ 合唱の本」ヤマハミュージックメディア 2013   日本合唱指揮者協会理事長の合唱入門書。マンガで始まり高校の部活向け?という感じだが、内容は発声も含めて合唱の基本事項をカバーし、わかりやすい記述で参考になる。別に「レベルアップ編」もある。 ・wander1985氏のブログ「鳥は歌う」  http://d.hatena.ne.jp/wander1985/   長年合唱を続けるアマチュアが、発声を中心に書いているブログ。大変多くの記事があり、それぞれが合唱人の体験を踏まえた記述なので、大変参考になる。 ・髙下三郎氏「歌声の音響」:学習院OB合唱団サイトにある記事  http://g-obdansei.circle.vc/alacarte/onkyou/   アマチュアと思うが、歌唱フォルマントほかについて分析的に掘り下げている。 ・佐藤賢太郎氏のサイトの「合唱音楽」記事  http://www.wisemanproject.com/education-j-choral.html   作編曲者・指揮者佐藤賢太郎氏の、合唱団員へのアドバイス。発声以外も含めて参考になる。 (補足:2015.2) ・フレデリック・フースラー/イヴォンヌ・ロッド=マーリング「うたうこと ― 発声器官の肉体的特質」音楽之友社 1987(原著「Singen」1965)   フースラーはスイスの声楽発声の教育者。解剖学・生理学に基づいた発声理論の原典的な書。学術的、抽象的な理論書で大著なので、読みごたえがある。 ■私の発声、これで良いのか  合唱のスキルは、それらしい発声で、正しい音程で歌う、というのが基本だろう。その上での応用として、周囲と指揮に応答して音楽的に表現する、ということか。合唱に適した「それらしい発声」というのが出発点なのだが、これがなかなかに難しい。  発声は、半分は先天的な要素が支配し、声帯や顔の骨格、歯並びなどの影響があって、音域の幅や基本的音色などは訓練しても進歩に限界がある。残る半分は後天的な要素であり声の出し方の問題なので、訓練によって進歩の余地がある、と思っている。  私は、合唱を高校時代以来40年ぶりに再開し3年経つ。再開以来、発声はずっと課題であり、模索している。この間、合唱団ではしっかりした発声練習が毎週あったし、周囲の仲間の発声から吸収し、前述の書籍やウェブサイトからもヒントをもらって、自分の発声が多少変わってきた。  合唱の場面ではないが、大広間での宴会で中締めのあいさつをした時、「合唱をやっているだけに声がよく通るね」と言われたことがある。進歩したと思いたいが、この変化の方向で良いのか、今の自分の発声のどこに課題がありどうしたら良いのか、本当のところわからないのだ。自分の声を外の耳で聴くことができないし。  ヴォイストレーニングの個人レッスンを受ければ手っ取り早いのかもしれない。が、ことはさほど単純でないように思う。合唱団の発声練習でも、ヴォイストレーナーの先生方の指導は、大筋では共通するが、一人ひとり違う。指導者自身がソプラノ、アルト、テノール、バスのいずれかで発声が違う部分があり、指導が違ってくる、ということもあろう。  ヴォイストレーニングの書籍やウェブサイトの議論を見ても少しずつ異なる。皆さん、最後は自分流(自己流とは申しません)の部分があるように思う。同じ発声指導の用語が、人によって少し違う意味で使われていると思うこともしばしばだ。結局、個人レッスンも自分に合った先生に出会えれば良いが、その保証はないのだ。  そんな状況で、わからないながらだが、発声方法の議論について、自分なりに頭の整理をしたい。より良い発声を目指すにしても、暗中手探りの模索でなく、多少とも合理的な試行錯誤にしたいという気持ちだ。 ■発声の指導  思うに、歌を歌うというのは、身体の各部をうまく使って発揮するパフォーマンスであり、スポーツに類すると考えて良いのではないだろうか。玄人の歌手はトップアスリートなのだと思う。  そして、歌の発声というのは、スポーツにおけるフォームに相当するのだと思う。つまり、野球のバッティングやピッチングのフォーム、ゴルフのスイングのフォーム、自転車のライディングフォームのようなものだ。スポーツの場合、フォームは基礎基本であり、初心者は素振りを繰り返すなどして、フォームを身につけないことにはその先の上達は覚束ない。  声は日常の会話などで発していて、ごく基本的な動作である。格別意識することない動作だけに、改めてフォームを意識し、改造するというのはなかなか難しいものだ。例えて言えば、ランニングやウォーキングのフォームと同類かもしれない。  スポーツのフォームの指導も、概して基本的な大筋では共通しているが、指導者によっていろいろな考えがあるものだ。また、各人の身体の個性があるので、最終的には自分固有の、自分流のフォームにしていくものなのだろう。  発声も、鍛錬して自分に固有の、自分流の発声フォームに到達した先生が、それを弟子に伝授するもののように思う。だから、先生一人ひとり、少しずつ言うことが違うのだ。  また、発声の指導は、「声が天井を突き抜けるイメージで」「喉でなく腹から声を出す感覚で」など、抽象的なイメージや感覚の言葉が多い。これは体験的な「コツ」を何とか言葉で伝えようするからそうなるのだろう。でも、抽象的なヒントの言葉で今ひとつわからない。コツを伝える言葉に対して、生徒であるこちら側も悟ることができる、受容できるような発達段階にちょうど達していないと、すれ違ってしまう。いわゆる「啐啄同時」でないとだめなのだ。いやはや難しい。  イメージや感覚でなく、生理学的、物理学的に分析して具体的に述べてくれるとありがたいのに、と実用主義の傾向の私はついつい思ってしまう。  声は、物理的には、息を声帯に通して作った音を、咽喉の空間と舌・唇とで音色、音程、発音、長さ、強弱などをコントロールして発している。それらの過程を、部分でなく全体を分析して、的確にコントロールする方法を体系立てている、そんな発声法理論を望むのだが、未だこの分野は研究途上であり、世界的にも完成された理論は無いようだ。 ■合唱の良い声とは  そもそも、合唱にとっての良い声とはどんな声なのか。それは、野放図な地声・なま声でなく、詰まったような声でなく、合唱の周囲から突出した声でなく、・・・。  西洋古典音楽の合唱である限りは、ベルカント唱法が目標と一般に言われる。無理のない美しい声で、声量があって響き、ホール客席の隅まで通る声。高音・低音の声域の広い声。この目標は間違っていないのだろう。異論はございません。  合唱団で指導していただいた先生方は、独唱・合唱活動をしているプロフェッショナルであったり、藝大声楽科の大学院生だったりで、当然ながらこれができている。一方、われわれ団員はレベルはまちまちだが、誰もその段階に達していない。声量が違う。響きが違う。玄人と素人と、一聴してレベルが段違いなのだ。  ただ、独唱の発声と合唱の発声は違う、という考え方もある。確かに、合唱の中で一人、オペラ歌手のような声があったら、浮いてしまう。合唱のメンバーが全員、ベルカント唱法を身につけて美しい発声ができるなら、それが合わさって素晴らしく高いレベルの合唱になるのだろうけれど。東京混声合唱団などのプロ合唱団は、そうなっているのだろうな。  私の場合は、幸か不幸か、ベルカント唱法を目指しても玄人レベルに遠くたどり着けそうにないので、一人浮いてしまう心配は当分要らない。  ところで、子どもの頃、こうした玄人の発声の歌曲を聞くと、何やら違和感を感じた。普段の話声との違いが大きく、不自然な作りものの発声という感じがしたのだ。音楽の授業で歌うのも、その不自然な方向を目指していることを感じて、恥ずかしい感じがしたものだ。  その感覚はいまだに残っている。合唱の練習は、よそゆきの声で、よそゆきの歌を歌っている感じが拭えない。ベルカントとかいって発声を練習しているのも、普段の会話の発声とギャップがあるが故、作りものを練習しなくてはならないのだ、と思っている。イタリア人とかは、普段の会話の発声と歌の発声のギャップがさほど無いのだろうか。 ・東京混声合唱団の演奏会(2015.8.7 東混・八月のまつり)を聞いて  お手本にしたい見事な合唱だったが、ここでは発声に注目して述べる。発声面でも、やはり美しい合唱だった。  独唱部分がある曲ではメンバーから数人が歌ったが、素晴らしい歌唱だった。やはり、メンバー一人ひとりが独唱の力量を持っている。ただ、同じ人が、合唱では声量を抑え、皆と溶け合う歌い方に変えていた。決して、それぞれが独唱の歌い方で朗々と歌い、それが合わさっての合唱、ということではなかった。  東混の創立者・常任指揮者の田中信昭氏の著書「絶対!うまくなる 合唱 100のコツ」が、ちょうどこの演奏会の頃に出た。その中に「『いい声で目立っていたね』と言われたら?」という項目があり、(たとえ、いい声、うまいとの感想であっても)ひとりだけ目立つのは、まわりからはみ出して、外れてしまっている現象で、合唱としては最低のあり方。常にまわりとのアンサンブルを大切に。という説明があった。なるほど、東混の演奏は、メンバーそれぞれが高度な歌唱力を持ちつつ、まわりとのアンサンブルを大切にする、合唱の歌い方をしていた。  この体験は、私にとって大きな勉強というか気づきになった。発声にとどまらず、歌い方全体の問題だが、この後、まわりに鳴っている声を聴き、それに合わていく、溶け込ませる、ということを意識しながら歌うようになった。発声でも、自分一人で歌う発声でなく合唱の発声なのだと思うようになり、妙な頑張り、余分な力みを抜くようになっている。 ■発声の要点  発声の指導は、上述のように指導者により言い方は多少違うが、口の中の空間を広く保つ、あくびをする感覚、喉を開ける、声を前に出すのではなく頭頂部に当てる、など共通するキーワードがある。共通して言われるということは、根拠があり、合理性があることなのだろう。  スポーツのフォームの指導でも、枝葉は異なっても、共通する根幹はあるものだ。これらは発声においても、外さずに押さえておくべき大事な要点なのだろうと思う。そこで、声が出るプロセスの順、呼吸、声帯、共鳴腔、舌・口唇の順に、そうした要点を整理してみる。自分の判断での私なりの整理です。念のため。 ■呼吸のこと(1) -腹式呼吸  声は吐く息(呼気)を使うのだから、しっかり呼吸することが基礎であり、それには胸式でなく腹式呼吸が適している。これは共通して言われることだ。  しかし、具体的にどう腹式呼吸をするのかとなると、様々な議論がある。「お腹を膨らまして息を吸い、凹まして吐く」「いや、腹式呼吸はお腹の前面を出したり引っこめたりすること、としてそれを訓練するのは間違いだ」「ドイツ唱法は息を吸って膨らんだお腹を保ち、横隔膜を固定したまま発声するのだ」など。  吸気(吸う息)は、横隔膜の沈下と胸郭の拡大を併用している。歌の場合は、腹式を主、胸式を従として行う、というのは良いのだろう。それをどう行うかという点で流儀が出てくる。  呼気(吐く息)については、呼気専用の筋肉は無く、肺自体や横隔膜、胸郭の復元・収縮により安静時は行っており、歌の発声では胸・腰周りの筋肉を使って促進させている、ということのようだ。(米山文明「声の呼吸法」)そこで、特に呼気を持続させたり、コントロールしたりするためにはどうするのが一番良いか、ということでいろいろ流儀が出てくる、ということのようだ。  腹の前面を凹ませて吐く、というのは腹式呼吸の図式としてわかりやすい。素早く凹ませると呼気の流速が速くなり、フォルテの出だしなどに効果があるのかも知れないが、自分は発声のコントロールがしにくく、使い方が難しいと感じる。  結論として、今の私は、日常生活も以前から腹式呼吸になっているのでそれで良しとし、吸気については改めて腹式を意識しないことにしている。米山=マリア流の、身体の外壁を広げ緩めることで自ずと息が流れ込ませる、を目指している(これも多分にイメージ・感覚の言葉であるが)。呼気については改めて次項で。 ■呼吸のこと(2) -呼気のコントロール、声の支え  結論から先に言うと、呼気については試行錯誤中である。  呼吸を発声にどう関連付けるかについて、最も理論的で納得がいくのは、米山文明「声の呼吸法」、マリア・ヘラー=ツァンゲンファイント・米山文明「息から声へ-マリアの呼吸法」のセットだと思っているが、これらであっても、呼気をコントロールしつつ声として発する、という肝心のところのノウハウはあまり教えてくれてないのだ。  私は、現在所属する合唱団の次期演奏会オーディションで、「柔らかい声という印象を受けました。支えをしっかりとして、息の流れを創りましょう。低音域は喉を開くことを意識しましょう」とのコメントをもらった。「支え」「喉を開く」、これらは発声指導の独特の用語である。「柔らかい声」や「息の流れ」もかな。いずれも定義が不明確、というか定義が十分共通になっていない言葉である。貴重なコメントなのだが、当方にはわかったような、わからないような。  敢えて解釈すると、コメントの前段、「柔らかい声」「支え」「息の流れ」の部分は、「ソフトな反面、声がしっかりしていないよ」くらいの意味だろうか、これは呼気に関係する問題と思う。後段の「喉を開く」は、「低域で共鳴が不十分な声、ふくらみの無い声になっているよ」ということだろうか、呼気とは別の問題と思うので、後述の共鳴腔の項で改めて検討したい。  「支え」という言葉もよく聞くが、一体どうしたら良いのか。と困っていたところ、このオーディションに前後して、別の合唱団でバリトン歌手大井哲也さんの合唱指導があった。発声、音楽表現の指導の中で、多くのヒントがあり、大変ありがたかった。その中で、特に私も含むバスパートに対してだったが、「口と同じ声量でヘソでも歌う感じで」という指導があった。  「ヘソでも歌う」、まさに「コツ」の言葉であるが、これを実践してみると、ヘソに呼気と同時に少し圧力をかけることになり、呼気をブレーキをかけながらコントロール下に置く感じになる。単純に吐く呼気がフラフラとコントロールが無いのに比べ、エンジンブレーキをかけながらの車の走行のようで、コントロール下に置く安定感、安心感がある。これが言われるところの「支え」なのだろうか、わからないのだが。  また、もう一つの効果として、基音と倍音の関係が変化してか、声の重心が下がって少し太い声になる、低域の声量が少し上がる、高域も低域と一貫した音色になる、というバスにとってうれしい現象も生じた。音の重心が下がるのは、バスとしては歓迎である。引き換えに、最高域は出しにくくなった。  バスの場合、低域を出そうとして喉で圧を加えてしまい、「喉で押さないで」と注意されることがよくある。ヘソに圧力を加える「支え」?により、喉で押すこともせずに済む。これも効果だ。  総じて、コメント前段部分への対応になっているだろうか、後段部分にもいくぶん効果があるのではないか、という感じだ。結構大きな変化であり、私の発声の歴史の中で、画期的なできごとと言える。  これは一体何が生じているのだろうか。「ヘソでも歌う」ことで、「膨らんだ腹を保つ」というドイツ唱法になっているのだろうか。「腹(丹田)から声を出せ」「腹で歌え」と言われたりするのはこれなのか。わからない。私は今のところ、「ヘソからも歌う」ことの結果として、横隔膜を動かす腹周りの筋肉をコントロールしながら使うことになっている、 と理解している。  清水敬一「必ず役立つ 合唱の本」に「支え」の説明があり、「歌うときに横隔膜が上がらないように、下腹の筋肉を使って(軽くお腹が締まるような気がします)息のコントロールをすることです。」と比較的明快に説明している。「ヘソでも歌う」法は、結果としてこの説明に当てはまるようだ。  「支え」に関しては、米山文明「声の呼吸法」、マリア・ヘラー=ツァンゲンファイント・米山文明「息から声へ-マリアの呼吸法」でも「音の支え」として言及されている。概略を紹介する。  両足を肩幅より広めに開いて立ち、片足の膝を緩め体重を移すと息が入ってくる。Lo-の音を載せながらの呼気で中央に戻る。パートナーの人に、骨盤に手を当てて中央に戻るのを邪魔して圧を加えてもらいながら、同じことを行うと、よりわかりやすい。「この動きで下半身から生まれる力を引き出し、これは声を支える一つの方法になります。」  私は、スパッと出しにくい高域でのフォルテの出だしなどの時にこの方法を使っていて、声が安定して出やすい効果がある。これは、緩めた膝を伸ばして床を押す下半身の筋肉の動きが直接「支え」になるというより、横隔膜を動かす腹周りの筋肉に連動し「支え」として働く、ということかと理解している。結果として、「へそでも歌う」と似ている。  大井哲也さんからは、呼気に関して、もう一つ指導があった。メリスマの箇所の発声について、「音を区切るのは、喉でではなく、横隔膜で。腹を中に入れる感じで発音し、喉には力を入れない」「腹を使って早く歌うのは初めは難しいが、1日に何度も練習を」ということであった。喉でではなく横隔膜を使う、呼気のコントロールである。  声の支え、呼気のコントロールについて、自分のこうした理解で良いのか確信はないが、私の場合には実際に効果はあるので、しばらく試行錯誤を続けたい。 ■声帯のこと -表声・裏声、声区  音が生まれるのは声帯だが、声帯の音はブォーという音色の、声以前の振動音の状態であり、喉頭原音と呼ぶそうだ。(米山文明「声の呼吸法」)振動数で音の高低が、振幅で大小が決まるのだから、やはり大事だ。  声を低音域から高音域に順に変えてて行くと、ある高さから声の性質が変わる。地声と裏声である。声帯の振動のさせ方を無意識に変えることで声質を変えている。地声は、声帯が比較的ゆるく張られ全体が振動するが、裏声は比較的強く張られ左右の声帯が接する限られた範囲が振動するようだ(米山文明「声がよくなる本」)。全体と部分と、声帯の振動モードが異なるわけだ。  ところで、ここでの「地声」という言葉だが、裏声に対する地の声の意味で、表声と呼ばれることも少なくないので、ここでは「表声」で統一する。「地声」は、訓練されていない野放図ななまの発声、という別の意味でもよく使われているので、ここではその意味で使うことにする。  弓場 徹三重大学教授はこの表声裏声に着目してYUBAメソッドを創始した。「ウラ声とオモテ声を分離・強化・融合し,音源生成の運動と調音運動をロスなく協調させ,短時日で効率よく発声・発音能力を向上させる,新発声科学の理論に基づいた新しいヴォイストレーニング法」(同メソッドHPより)ということである。よくわからないが、声帯の振動モードをコントロールする訓練ということだろうか。訓練効果があるなら良いのかもしれない。  さて、日本では表声と裏声という区別をするが、ヨーロッパではさらに細かく胸声、中声、頭声、ファルセット等の分類をしているということで、発声指導でも時にこれらの言葉が出てくる。この区分のどれに表声・裏声が対応するのか、どれかに近いが異なるのか、ここも諸説あって、私はお手上げである。 この声区の区分は、低域から高域へ、声帯の振動モードが違うことに本質がある。高域になっていくと、左右の声帯が薄めに伸展して接する(声帯を薄く使う)、さらに高音域では部分的振動するモードになる。ただ、歌い手の体感として、振動や響きが出ていく感じの位置が、胸骨付近から頭頂・後頭部にまで変わっていくので、誤解・混乱があるが、決して共鳴させる場所を示すものではない、ということだ。(高田三郎「高い声で歌える本」)  高田氏は、声帯の部分振動を起こさせることで高音域を開発できると提唱している。声帯の振動部分を短く変化させるための訓練であろうか。確かに経験上、ある音からオクターブ上下の音への飛躍は、喉をそのまま変えない感じであり、比較的容易にできる。声帯の振動部分が1/2に短くなったということだろうか。  だんだん理解が追い付かない話になっていく。このあたりは、生理学的にもまだ十分解明できていないらしい。  私は、いずれにしても声帯自体は、意識して鳴らし方をコントロールすることは相当難しいのだろうと考える。弓場氏や高田氏の訓練をやってもみないで、であるが。還暦を越えている私としては、まず 声帯を痛めないようにする、加齢による劣化をなるべく遅らせる、という意識でいる。 ■共鳴腔のこと(1) -様々なノウハウの整理  共鳴腔は、声帯から上の、喉頭腔、咽頭腔、口腔、鼻腔、副鼻腔、頭部の含気蜂窩などの空間の総称である。無味乾燥な声帯の喉頭原音を、共鳴させて拡大し、同時に音色を生みだしている。響く声、響かない声は、共鳴腔の使い方次第と言われる。  米山文明の「声の呼吸法」から、関係する記述を取り出してみる。 ①共鳴腔の使い方の第一は喉頭室の使い方で、大きく広く使うと音色は明るく、音響効果も増大する。 ②第二は喉頭蓋の角度で、角度が大きく起きていると声門上腔が広く開放され、明るく響きの良い声になる。角度が小さいと、声帯の上腔から蓋をかぶせるような形になり、音色はこもったような暗い声になる。いわゆる「通る声」にも影響する。「喉を開けなさい」と言われるのも、このことであり、口を大きく開けることではない。 ③第三に咽頭腔、口腔の形、容積づくりも歌声の音色に大きく関わる。舌、軟口蓋、口唇、あごなどの器官を複雑に使いこなすことで、内腔の変化を作っている。 ④鼻道系の変化のし方、鼻に抜ける道も共鳴効果に大切な役割を果たす。  総じて共鳴腔を広く使う方向が良いようだ。しかし、広くと言われても、言及されている器官は自由に動かしにくい。具体的にはどうしたら良いのか。  どうしたらについては、様々なノウハウというかtipsが言われる。上述の参考資料やその他のものを列挙してみる。効果については、私の判断が入っている。 ・あくびをするときの喉→気道が丸く開き、共鳴腔の各器官に喉頭原音が伝わりやすい果。①~③?(米山文明) ・顎を十分に開き、下顎を心もち前に出す→同様の効果。①~③?(米山文明) ・嚥下直後に喉頭蓋が立ちやすい「イ」を発音して訓練。→喉頭蓋を起こす効果 。②(喉ニュース) ・あくびの形。→舌根を下げる、喉頭蓋を起こす効果。②③(鷲尾 経一氏 ブラックゴスペル歌唱のための・・・) ・あくびの形。→喉頭が下がる=喉頭蓋が起き上がる効果。②(カリオペくまもと発声日誌) ・あくびをする感覚。→軟口蓋を上げる効果。③ (小林由起子) ・あくびの形。BoやDumと発音。→軟口蓋を引上げ、のど仏を下げる効果(のど仏引き下げ過ぎは良くない) ③(鳥は歌う) ・口角を上げる、目を見開くなど表情筋を使う。→軟口蓋を上げる効果 ③(鳥は歌う) ・舌を出して発声練習する。→舌の力みを抜く効果。③(鳥は歌う) ・あくびの形。→舌根を下げるとともにのど仏を下げる効果。③(れみぼいす) ・下顎でなく上顎を開ける感じを持つ。→口腔の容積への効果。③(鳥は歌う) ・下顎は蝶番のように開くのではなく、真下にスライドするように下げる。→口腔の容積 への効果 ③(鳥は歌う) ・「イ」や「エ」の発音を口を横に開けると響きが浅くなるので縦に開ける。→口腔の容積へ の効果。③  列挙してみると意外にバリエーションが少ない。特に「あくび」はあちらこちらで推奨されている。実際、合唱団の練習場面でもよく言われるので、あくびは公然とできるのだ。  バリエーションの少なさは、因果の分析が不十分ということかもしれないし、共鳴腔の各器官は神経系統、筋肉が相互に関連するので一つの動作でいろいろな効果があるということかもしれない。  のど仏を下げることについては、下げた位置で維持すべきという考えの一方、無理に下げようとすべきでない・危険であるという考えもある。共鳴腔を広くすることは大事だが、喉周りの筋肉を力ませるのも良くない、ということのようだ。  「喉を開く」は発声用語でもとりわけ使われる言葉だが、意味はさまざまである。米山氏は②の意味で使っている。wander1985氏の「鳥は歌う」では「肩~首~下顎をリラックスさせる」と捉えることを勧めている。私のオーディションのコメントの「低音域は喉を開くことを意識しましょう」は、共鳴腔の使い方が不十分でふくらみのない声ということか、どこか力みがあって詰まった声ということか、よくわからない。自分では、舌が力みがちになる癖があると思う。舌がへこんだり、奥で持ち上がったりするので、これは直したい。  共鳴腔について、私としては、諸説を念頭に置きながら実践の中で経験を積み、自分流の発声フォームを確立していきたいと思っている。 ■共鳴腔のこと(2) -声の方向  発声でよくある指導として、「声を額に響かせる」「声を頭頂部に当てる」「音を天井に向けて飛ばす」などの言葉がある。よく言われる割にわかりにくい。声を向ける実際の方向を言っているのか、イメージとしての方向(すなわち比喩)なのか、後者と聞こえることが多かった。さらに、歌い手が眉間など、響き、ビリビリする振動を感じる部位、すなわち共鳴させる目標を指すこともある。それぞれの先生自身は、意図する意味が明確なのだと思うが、私にとっては、どうしたら良いのかわからず困惑する言葉の第一位だった。  スイスのフレデリック・フースラーが1965年に提唱した「アンザッツ(声を置く、当てる)」理論というものがある。「これは、歌手が音を当てる(響かせる)場所を変えた時に起こる音色変化を無意識に起こる様々な発声筋肉群における働きの変化としてとらえ、各筋肉郡の働きを詳細に説明したもの」(高田三郎「高い声で歌える本」)だそうである。  難解な説明で、私は理解できないが。フースラーは、胸骨、前歯、額、頭頂部など7つのアンザッツポイントを示しているという。この理論の影響で、どこそこに当てる、響かせる、という指導があるのだろう。  しかし高田三郎氏は、アンザッツ理論には限界があるとし、ハーバート・チェザリーが1963年に提唱した「サウンドビーム」理論を自分の指導指針にしているという。「声帯から音響学的な音のビームというものが発生し、それを人間は振動として体感する。母音の種類とピッチにより物理的音響学的な結果的事実として、正しいサウンドビームの方向、位置、高さというものが存在する。そして、その正しいサウンドビームの方向に響きを描ける発声ができれば、声が自由になり、自然な正しい発声ができ、高音域の発声も可能になる」(高田三郎「高い声で歌える本」)とのことである。  またしても読み返してもわかりにくい直訳調だが、フースラーのアンザッツ理論とは似て異なるそうだ。フースラーが響かせる目標(比喩)だったのに対し、チェザリーは声の音響を向ける方向(実体)である、という理解で良いのだろうか。で、チェザリーは結果として響く声を得るということだろうから、物事を原因から見るか、結果から見るかであって、結局同じことを言っているのかとも思うが。  チェザリーのサウンドビームについて図解を見ると、ピッチが最低音なら口蓋の高さで母音がウ、オ、アゥ、イ・エ、アの順に前方から垂直方向のベクトルが描いてある。最高音では額の高さでイ・エが垂直方向、ウ・オ・アゥ・アはやや後方のベクトルである。  このサウンドビーム理論の影響を受けた発声指導もあるのだろう。そして、意地悪く言えば、これら二つの原典にあたっていない無自覚な指導もあるのだろう。  私は、高田三郎の書籍以前に、小林由起子「声のトレーニング」で、「硬口蓋にある切歯窩に声を当てると声が伸び、響きが良い」という具体的で明快な説明を読み、目からウロコであった。それまで、「○○に響かせる」とか「当てるイメージで」など、声の方向についての指導を言われても、イメージの話なのか、実際に当てるという話なのかあいまいで、どうもわからなかったのだ。これに比べ、小林の説明は迷う要素が無く誠にわかりやすい。  清水敬一「必ず役立つ 合唱の本」も、「声は斜め前に出そう」「自分の眉間から斜め上に向かって出すと、ボリュームも増して声が通るようになります」としている。  声を切歯窩に当てようとすると、口腔内で息の方向を調節することになり、下顎は下にスライドさせ、少し受け口的に前に出す開け方になる。私の場合は、息を上方に向けようとすると、上述のように舌もスプーン状になり、舌根も持ち上げてしまうので脱力して下げるよう注意が必要だ。上下の顎は開いておくが、口(唇)はすぼめ加減になる。  結果として、発声が変化したと思う。地声・なま声的な声を前方に発していたのが、多少響きのある歌唱の声になったように思う。ただ、バスパートの仲間に「声がこもっているんじゃないの?」と言われたこともある。垂直方向を意識し過ぎると、口(唇)の開きが過度に小さくなり、舌根が上がってしまったりして、共鳴腔の中で音がこもり気味になってしまう。ここは注意だ。  ここで、息と音とは別物なのだから、サウンドビームも声の音の方向の理論であって、声の息の方向と理解するのは違う、という考えもありそうだ。確かに、声は音波、すなわち空気の疎密の波であって、息ではない。だからして、口から吐かれる息が届く距離はせいぜい1mであるのに、声はずっと遠くのホールの端まで届くのだ。確かに別物であるが、腹話術やハミングはともかく、歌唱の場合は、吐く息の方向と声の方向は基本的に同方向と私は思うのだがどうか。  声の方向についても、わからないことが多いが、実は発声の重要な要点の一つなのではないかと思う。私の場合、まだベストの方法に行きついておらず、実践の中でさらに追求していきたい。 ■フースラーの「アンザッツ」(補足:2015.2)  前項で、高田三郎氏のフースラーの「アンザッツ」理論への言及を紹介したが、そのフースラーの本が横浜市立中央図書館にあったので読んでみた。少し古い専門書なので、大きな図書館の蔵書にあるだろう。 (フレデリック・フースラー/イヴォンヌ・ロッド=マーリング著、須永義雄・大熊文子訳「うたうこと ― 発声器官の肉体的特質」音楽之友社 1987(原著「Singen」1965)  「アンザッツ」については、中ほどの第8章にまとめられ、この本の中でも中心的な章になっている。  まず、このアンザッツという用語についてだが、無論アインザッツではない。ドイツ語のansatzと思うが、辞書によると、本義は「開始点、発端」であり、音楽用語として「音の出し方、歌唱法、吹奏法(吹奏する時の唇の位置)」とあった。この訳書では日本語にせず、そのまま「アンザッツ」と記している。単に「声の当て方」ではなく、それを含めて、より広義の「声の出し方」「歌唱法」ということのようだ。  この章から要点を整理してみる。原文のままの引用ではなく、私なりの要約である。また、( )内は私の解釈・考えである。ここでの論旨は、平たく言うと、声の当て所により声帯の働き方が違ってくるので、常に一つの所に当てるのではなく、状況に応じて適切に使いこなしなさい、ということだろうか。そもそも共鳴ということではないとしており、今、「共鳴腔のこと」という項目の補足に記していること自体が違うのかもしれない。  いずれにせよ、高田三郎氏の記述だけではわからなかったことが、少し理解が進んだ。  以下は、第8章の要点。 ----------↓ ・歌手は、頭頂部・前頭部・鼻根部・上顎部・歯列部などに振動を感じ、それを「声を当てる」、声に「置き所」を与えるなどと言う。音響学的研究では、この振動が声の響きを作り出していることは否定されている。けれどもなお、そういう音響現象があることには変りはない。 (これは、声を当てること、それにより各部位の振動を感じることが、直接の共鳴とは違うものの声の響きに関連性がある、くらいの意味だろうか。また、「声を当てる」とは、比喩的にイメージを言っているのではなく、実際に声を向ける方向で、その結果振動を感じる部位のことと読める。) ・「声楽家たちの間で普通用いられる声の当て場所の典型」として6か所(No.3は二つに分けているので、高田三郎氏のいうように7か所とも言える)を図示し、それぞれについてコメントしている。 No.1 上(と下)の門歯の歯先  声帯の隙間がぴったり閉じられるか狭くなる。それにより声は前に響くが、声は平たく、ふくらみ、つやがない。喉頭引き上げ筋は働くが、引き下げ筋が働いていないため、喉頭が高く上がり狭まり、強く声を出そうとすると悪い結果を招く。 No.2 胸骨の最上端(左右の鎖骨の中間部分)  同じく、声帯の隙間がぴったり閉じられるか狭くなる。それにより声は前に響く。喉頭引き下げが働いているのでNo.1の危険は防止される。よくとおり、生き生きとして響きのある、いわゆる「開いた=明るい」が平たくない声が生まれる。 No.3a 鼻根部(両目の中間部分)  声帯が強く緊張し、全長にわたって振動する。充実した声が出てくる。しかし余り長くこればかりやっていると声帯内筋に問題が生じる。 No.3b 上顎部(前歯の裏側上方、硬口蓋の前部(小林由紀子氏の切歯窩もその一部だ))  声帯の隙間を閉じるのに役立つ。声帯の縁辺部分がぴんと張り振動する。声は前に出る。 No.4 頭頂部、軟口蓋(頭蓋骨のてっぺん部分と、これに喉頭の空間で対応する軟口蓋)  声帯は伸展され薄くなる。喉の中は広がり、声は「純粋の頭声」「デッケンされた声」になる。少なくとも低い音域では声の芯の無い、気息的な性質を帯びる。 No.5 前頭部(額の髪の生え際)  No.4より喉頭は高く引き上げられる。声帯は閉じても中央部に楕円形の小さな開きが残る。「純粋な頭声」よりふくらみが少なく、開いた印象の、ファルセット、ファルセットの混じった声になる。 No.6 うなじ(首の後部だが下半分。図示では七つある頸椎のうち下の四つ) 声帯は最も強く伸展され、声は美しい響き、よくとおり、充実した豊かさが出る。このアンザッツにより高音域が自由になり、「充実した頭声」が生まれる。傑出した歌手は皆このアンザッツをやっている。が、もっぱらこればかりやっていると問題が生じる。 ・アンザッツは、出そうとしている声の強さ、高さにより、また母音の種類によっても、歌おうとする音楽のスタイルによっても、異なったものになるだろう。(ただ一つ正しいアンザッツがある、ということではない。歌手がどのアンザッツを好んで用いるかはあるが、声帯の伸展など発声器官の働き方に関連するため、どの状況ではどのアンザッツが適切かは「規則正しく現れる」ものだ。) ・一つのアンザッツばかりやっていると、一部の筋肉が過度に使われ、発声器官をこわすもとになる専門化が生じる。発声訓練では、論理的に言って全てのアンザッツを交互に練習させなくてはならない。(六つのアンザッツについてのフースラーのコメントには、肯定的・否定的のニュアンスの違いがあるが、どれかを推奨したり排斥するのでなく、全てを訓練して状況に応じて使いこなすべき、という考え方のようだ。) ・①平たい・狭い声、②喉頭が高く上がり過ぎ・押しつぶされた・喉の詰まった・硬い声の場合は、No.4、6のアンザッツを練習すると良い。弛緩しすぎた・厚ぼったすぎる声にならないよう、No.3a、3b、2の練習もおりまぜる。  ③喉の開きすぎた・うつろな・息の混じった・奥へ引っ込んだ声を直すには、No.2の練習が出発点だ。声を前に出し、芯を作ることができる。偏りすぎないため、時々No.3a、3bの練習をまぜる。(私のケースは、これだろうか。) ・使いものになる「胸声」はNo.3、硬くならない「中声」はNo.2、高音域(「頭声」「ファルセット」「弱頭声」)はNo.4、5、6、「メザヴォーチェ」はNo.3b、No.1、をそれぞれ練習すると良い。(胸声は文字どおりのNo.2と思いきや、そうでない。) ----------↑  余談だが、この本の最終の第21章は「合唱で歌うこと」という項目だ。独唱の発声と合唱のそれとの違いを理論的に述べているかと期待して読んだが、あてが外れた。  訳文が直訳的でこなれておらず大変解りにくいのだが、私なりに解釈すると、フースラーはだいたい以下のようなことを言っているようだ。合唱での発声について悲観的、否定的な見解だが、私にはどうも腑に落ちない。共同して歌う束縛の何が問題か明らかにしないまま、すぐに成長過程における発声の課題に論点を転じてしまっていて、どうも論旨がよくわからないのだ。 ----------↓ ・合唱で共同して歌うという束縛のために、発声器官にとって合理的な発声が損なわれ、問題が生じる。99%の人はちゃんとした訓練がなされていないので、声が損耗してしまう。 ・このことは、大人はまだしも、子どもの場合は看過できない。有名な少年合唱団で、ほとんどの子の豊かな声楽の天分が消えてしまうのは、声変わりにより自然と消えるのではなく、不十分な発声教育のまま合唱で歌うために肉体的に破壊されてしまうのである。  幼児は言葉を話し始めることで、生来の発声器官の完全性を損なってしまう。声が声区に分裂し、また、喉頭と呼吸器の協調が断ち切られる。子どもにはある時期まではその障害を取り除く順応性があるが、変声期前の12~14歳の時期になると順応性が突然止まってしまう。この年齢限界以後は、発声器官の破壊が起きる。 ・このため、合唱での発声については、常に監視下に置き、頻繁にチェックすることが必要だ。 ----------↑  フースラーの本から二つの章を紹介したが、この本は具体的な発声指導を書いたフースラー・メソッドといった書ではない。難解な研究書という感じで、理屈っぽく抽象度の高い文章が連なっている。特に前半の解剖学・生理学に基づく分析は、声帯やその周囲の筋肉の機能について詳細に記述し本全体の基礎になっているが、こちらの知力不足のせいもあって理解が追いつかなかった。  また、フースラーは物事を多面的、総合的に分析する人のようで、これが唯一絶対というような結論の導き方をしていない。それはそれなのだが、抽象的な分析が広がるにとどまっている感があって、「自分の発声は何が問題で、どうすれば良いのか?」という素朴な疑問にズバリと答えてくれない。発声器官の分析の上に、それらをいかにコントロールするかの方法を、抽象度を具体レベルに下げて体系立ててくれているとありがたいのだが。  とはいえ、後半の応用論の部分、特にアンザッツの章は「どうすれば」にある程度答えてくれている。自分の発声にとって今後大いに参考になりそうだ。他にも呼吸や声区についての章が参考になった。  様々な本や資料で名があげられているフースラーだが、原典と言われる本にあたると得るものがやはりある。一読をお勧めしたい。 ■共鳴腔のこと(3) -倍音、歌唱フォルマント  声帯での音、喉頭原音を共鳴腔で共鳴させて、整数次倍音、非整数次倍音を付加合成して、人それぞれの個性ある声ができている。ベルカントの発声では整数次倍音が適度に豊かであるが、そのために前述の共鳴腔を広く使うさまざまなノウハウが有用なのだろう。  倍音が強く表れている周波数域は「フォルマント」と呼ばれる。(倍音とフォルマントについての説明は、http://www.youtube.com/watch?v=kPLajndKlfE が分かりやすい。)響きの良い、よく通る歌い手の声は、共通して周波数3,000Hz付近の音響エネルギーが強く、「歌唱フォルマント」と呼ばれるそうだ。  この歌唱フォルマントについては、参考資料で紹介した髙下三郎氏「歌声の音響」(学習院OB合唱団サイトにある記事)http://g-obdansei.circle.vc/alacarte/onkyou/ が詳しい。  記事には、歌唱フォルマントはどうしたらつくのか、も書かれている。喉頭(のど仏)を下げると得られる喉頭の空間の共鳴周波数が、歌唱フォルマントの周波数(ここでは2,800HZとされている)になっている。したがってのど仏を下げると効果があるとのことである。手で触りながらの訓練のほか、「なんらかの形で腹筋を使うとノドボトケが下がることがあります。『お腹のささえ』『臍下丹田』『腹からの声』とかというのは、ノドボトケを下げるための、つまり歌唱フォルマントをつけるためのテクニックなのです」ということだ。  前述の大井哲也さん指導の「へそからも歌う」は、腹筋を使うことでのど仏を下げ、歌唱フォルマントをつける効果もあるのだろうか。そうだと面白いが。  歌唱フォルマントとのど仏を関連付けた解説は他であまり見かけないが、NHKのテレビ番組「アインシュタインの眼」で2008年2月に同様の説明があったらしい。  のど仏を下げることについては、無理に下げようとするのは良くない、との議論もあり、いよいよ難しい領域である。現在の私の発声の訓練度からすると、まずは頭の隅に留めておくくらいの話である。  佐藤賢太郎氏の「合唱音楽」記事 http://www.wisemanproject.com/frame-j.html も歌手のフォルマントとして言及している。クラシカルなソロで使う高域の倍音を付加した音色。これに対して、合唱では溶け合いやすい「素直な音」、中高域の倍音を取り除き、基音とそれに近い低次倍音を増加させた音色を推奨している。その上で、両方できるようになると音楽の可能性がグンと膨らむ、合唱のバスパートは低音域において少し歌手のフォルマントを音色に加えると、合唱全体が豊かになる、としている。  これができるものならば喜んでするが、高度なスキルだ。合唱指導者の描く理想はこうなのか。 ■共鳴腔のこと(4) -身体各部の振動・共鳴  米山文明「声の呼吸法」の後の方の章は、「体の壁や骨の振動、共鳴効果を十分発揮させる」という話題になる。一部の歌手や狂言師の場合、上半身はもとより、下肢からも響き(高次倍音)として放出されている、とのことである。  自分とかけ離れた世界だが、どう考えれば良いのだろうか。骨、筋肉、内臓は、そもそも空間ではないのだから、共鳴腔のような共鳴ではない。声帯の喉頭原音の、あるいは共鳴腔の声も含めた振動が伝播しているということと理解する。振動を、頭蓋や胸に、さらに下肢にも効率的に伝播し発散する、適切な訓練によってそれができるようになる、ということだろうか。  録音した自分の声に違和感を感じるのは、普段の自分が骨導音も混じった声を聴いているから、と言われる。すなわち、頭蓋骨は水分があるだろうし、内側の脳や首周りの筋肉などにダンプされて振動は伝わりにくそうだが、思いのほか骨導音として伝わっている、ということである。だとすれば、頸椎や脊椎を経由して振動が上半身、下半身に伝わる状態も、訓練により作れるのかもしれない。  米山文明「声の呼吸法」、マリア・ヘラー=ツァンゲンファイント・米山文明「息から声へ-マリアの呼吸法」のセットは、筋肉・関節のリラックス、適切な呼吸・姿勢とともに、音の響きを身体の各部で感じるようなエクササイズを勧めている。面倒に感じて、私はこのエクササイズをやっていないが、遠回りのようで正道なのかもしれない。  共鳴腔を超えた話だが、共鳴腔の振動が身体各部に伝わるものと思うので、この項の話題とした。 ■舌・口唇のこと  最後の項目は、声を声として発するのに必要な最終過程だ。共鳴腔で共鳴させつつ、舌と口唇で母音・子音を形成して発音するのが発声の最終過程である。  私の所属する合唱団では、主に宗教曲なので、ラテン語の発音ということになる。ラテン語はローマ字読み的に読めるという意味ではとっつきやすいが、母音、子音とも日本語と当然異なり、なかなか難しい。もっとも、日本語も歌唱での発音は簡単でなさそうだ。  母音の発音について、佐藤賢太郎氏の「合唱音楽」記事の中に説明があり、有用と思う。 http://www.wisemanproject.com/frame-j.html  共鳴腔の項で既に紹介しているが、舌は力をうまく抜かないと舌根が持ち上がりやすいし、口唇は「イ」や「エ」の発音など口を横に開けると響きが浅くなるので縦に開ける、といったことがある。共鳴腔を広く使う原則に反してしまうことがありうるのだ。歌詞を発音する動的な動きの中でのことだが、身についてしまった癖を見直すということなのだろう。 ■まとめ  以上、発声の方法論として言われる様々なことについて、自分なりに要点と思うことの整理をしてみた。  整理した要点を私が全て実行しているわけではない。発声の全体像を一度整理したかっただけである。ただ、それによって自分が練習すべきこと、注意すべきことが多少とも整理され、今後の練習の指針ができた気がする。全体を知りつつ部分を少しずつ強化するということはあろうが、ある部分きり見ない一点集中の訓練は駄目なのだろうと思う。  発声は今後とも続く課題だ。一方、還暦を過ぎた自分にとっては、今後少しずつ声の衰えが加わる。いや今も既に衰えは出てきているのだろう。進歩を目指しながら、せいぜい維持する結果になるのかもしれないが、ま、やって行きましょう。 *発声についてのその後の考察を、「合唱の発声について考える」(その2) として別稿にまとめた。こちら