2019年2月10日PMS合唱団演奏会のマタイ受難曲 2018年9月

 今度のPMS合唱団演奏会は、J.S.バッハの「マタイ受難曲」BWV244である。曲全体を眺める頃合いになってきたので、毎度のごとくだがまとめを試みる。拙いまとめだが、書くことが曲の内容や背景を自分なりに考えるプロセスになり、やはり理解が深まることになる。それが歌にも好影響を及ぼせば良いのだが。  バッハの宗教曲の中でも、ヨハネ受難曲、マタイ受難曲、ロ短調ミサ曲は、代表的な3曲だ。と同時に、クラシック音楽の歴史の山脈にそびえ立つ、高峰のような存在だ。  PMS合唱団では、2年前にヨハネ受難曲を演奏した。私には、初めて歌うバッハだったが、音楽としての完成度、奥深さにすっかり魅せられた。バッハのほかの曲も歌いたいと願っていたが、1年おいた今期、マタイ受難曲が取り上げられてとてもうれしい。限られた人生の過程である。心から良いと思う音楽に取り組めることは幸福だ。  2年前、ヨハネ受難曲についてやはりメモにしている。内容の重なりが少なくないが、お許しを。2017年4月29日PMS合唱団演奏会のヨハネ受難曲 ■マタイ受難曲の構成  受難曲とは、新約聖書中のマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの四福音書に記されているイエスの十字架上の死に至る受難の伝記に音楽を付したものであり、ルネサンス以前から作られてきた。プロテスタンティズムのルター派では、キリストの受難週(2019年は4/14~4/20)に礼拝として演奏された。深い信仰を持ったバッハが作曲したマタイ受難曲もその伝統上にあり、マタイ福音書を基礎にして作られ、1727年に初演されている。  ヨハネ受難曲についての記事で、自己流の雑駁な分類だが、全体では40曲、大別すると「物語」の曲が29曲、「コラール」が11曲、と記した。  同じ分類で、マタイ受難曲は全体で68曲、「物語」55曲、「コラール」13曲になる。マタイはより大規模になっている。また、曲の構造もより複雑だ。  「物語」の曲は、福音書記者(エヴァンゲリスト)を進行役として、場面場面、登場人物の台詞によりキリストの受難を物語っていく部分だ。全体を俯瞰する第1曲や最終曲、登場人物の心情や信仰上の解釈などをうたうアリアなども、大きく「物語」の範疇に入れている。  今回、改めて新約聖書の「マタイによる福音書」(新共同訳)を読んだ。マタイ受難曲は、その26章と27章、祭司長たちの計略の場面から始まり、番兵が墓を見張る場面までだが、ほぼ原文に則っていると知った。歌詞はドイツ語であり、福音書からの引用部分はM.ルター翻訳のドイツ語聖書の文言をほぼそのとおりに用いていると推察する。歌う側には、場面に応じた心情・精神の表現が要求される。  「コラール」は、ドイツ・プロテスタント教会の礼拝で会衆が歌うドイツ語歌詞の讃美歌であり、多くは16、7世紀に作られた。その詞は、プロテスタントの教理、教義を内容としており、会衆自らによる説教という性格もあるようだ。これをバッハが四声に編曲し、受難曲の要所に置いて、場面に相応しい教訓を示し確認する役割を持たせている。  コラールは、どれも短く美しい曲で、四分音符中心の素朴な主旋律に、和声が並行する。物語の曲とは一変して、穏やかで心地良く、なおかつ荘厳な雰囲気だ。合唱としては、ハーモニーの精度が問われることになる。  バッハ作曲当時、受難曲を聴いた会衆は、「物語」の曲でルター聖書の文言の記憶を呼び起こし、「コラール」の曲で馴染みある讃美歌に出会う体験をしたことだろう。 ■私が好きな曲  マタイ受難曲は大変長い曲で、演奏時間は3時間近くに及ぶ。演奏を何度か聴き、自分で合唱を歌うと、全68曲それぞれが必然性のある良い曲であり、全体が総合して比類ない完成度の音楽になっていると感じる。  しかし何せ3時間、CDでは3枚になる長さであり、集中力を保って聴き通すことはとても無理なことだ。まずは、いくつかの曲に焦点をあて、メリハリを付けた聴き方をお勧めしたい。  独断だが、お薦め曲を記してみる。これだけ聴けば、のハイライト曲というものではない。合唱を歌う私が好きな曲、聴きどころと思う曲ということであり、どうしても合唱の曲が多くなっている。  駄文を付けたが、解説部分は自分のオリジナルではなく、礒山 雅(1946-2018)「マタイ受難曲」(1994 東京書籍)に多くを負っている。この礒山氏の著作は、音楽内容の分析、バッハと時代背景の考証、聖書の理解など多面的に、しかも深く掘り下げてこの曲を解説しており、名著と思う。まず、合唱を歌うための理解に大変助けられたが、それ以上に、この曲を深く好きになる契機になった。  まずは第1部から。(曲番は新バッハ全集の番号。タイトルは礒山氏訳の歌詞冒頭。) ●第1曲 合唱「来なさい、娘たち、ともに嘆きましょう」  導入は、これから始まる受難劇の全体を俯瞰する大規模な合唱曲。受難という悲劇の導入曲なので暗く陰鬱かというと、そうではない。壮大な眺望をイメージさせる、構えの大きい序曲になっている。  冒頭から、十字架を背負い刑場に向かうイエスの情景であり、聴く者をクライマックスの場面へ一気に持って行く。映画の導入部を見るような開始だ。が、音楽は超然として展開していき、これから始まる受難物語が単なる悲劇でなく、キリスト教の教理そのものであることを表現する。  マタイ受難曲では、合唱四声とオーケストラがI群、Ⅱ群の2組ある編成になっている。ステージでも左右2組に分かれる。曲によって、Ⅰ+Ⅱの合同、Ⅰのみ、Ⅱのみ、と演奏する編成が変わる。ちなみに、私は合唱Ⅰのバスパートである。  第1曲では、出来事を見守る「シオンの娘たち」をⅠ群が主として歌っていき、その報告を受ける「信じる者たち」をⅡ群として迫力ある応答があって、最後は合同の合唱になっていく。途中では合唱I+Ⅱが八声の対位法を歌い、さらに Soplano in ripieno(多くの演奏で少年合唱を起用するが、今回演奏会ではどうなるか)が別のコラールを重ねる。複雑な重層の構成で音が波になって押し寄せる、聴きごたえある曲だ。 ●第8曲 ソプラノアリア「血を流されるがいい、いとしい御心」  ユダが祭司長らに密告を申し出るくだりの後のアリア。弟子の裏切りに心を痛めるイエスを独唱ソプラノが切々と歌う。不安定であいまいな半音の動きが、その後の受難への不安を表現している。 ●第15曲 合唱コラール「私を知ってください、私の守り手よ」  マタイ受難曲には13曲のコラールが要所に置かれており、既にこの曲の前に、美しい第3曲、第10曲がある。それらは無論良いのだが、第15曲の主題旋律は少し特別で、この先、第17曲、第44曲、第54曲、第62曲でも使われ、場面に応じ、少しずつ形を変えて出てくる。バッハは、マタイ受難曲の基礎となる曲、ここに戻ってまた次の場面に行く、いわばベースキャンプの役割を与えているのだ。  その主題は、ルネサンス時代のH.L.ハスラーの世俗曲で、バッハ自身の作曲ではない。作者が誰であれ、ソプラノが歌う冒頭4小節は、神に何かを願い、問いかけるようなモチーフでとても良い旋律だ。バッハがベースキャンプに選んだだけのことはある。  このハスラー旋律は、牧歌的な第15曲に始まり、半音下がって内面的な第17曲、さらに半音下げて神への確信を表す第44曲、と展開する。第54曲、第62曲については、後述する。 ●第20曲 テノール・合唱Ⅱアリア「イエスのもとで目覚めていよう」  オーボエの前奏で始まる切ない旋律のテノール・アリアに、合唱が加わる。  曲が前後するが、イエスがペトロら三人の弟子をゲツセマネの園に連れて行き、「ここにいて私とともに目を覚ましていなさい」と言った(第18曲)。イエスは苦悩しながら祈る(第19曲)。が、繰り返し言われてもその度に弟子たちは眠ってしまう(第26曲)。  この第20曲は、聖書の文言には無いが、その間の弟子たちを描いている自由詩である。テノール独唱が、覚醒を誓う弟子の心を歌い、それを受けて合唱Ⅱが「そうすれば(目覚めていれば)私たちの罪は眠りにつく」と子守歌のように逆説的な言葉を歌う。目覚めていようと固く思いながら、結局は眠り、無自覚のうちに師に背いてしまう。  最も信頼されていた三人の弟子のつまづきは、人間誰もの弱い姿を象徴しているのだろう。バッハは、第1部の中でもとりわけ印象に残る美しい曲に仕立てて、これを表現している。合唱Ⅱの曲だが、合唱団男声が少人数であるため、合唱Ⅰも加わることになるかもしれず、そうなれば有難い。 ●第27曲a ソプラノ・アルト・合唱 「こうして、私のイエスは、今捕らわれた」 ●第27曲b 合唱 「稲妻と雷は雲間に消えたのか」  イエスの捕縛をソプラノ、アルトの二重唱が歌い、合唱が「放せ、やめろ、縛るな」と呼応するのが、第27曲a。  続く第27曲bでは、合唱が怒りを爆発させ、急速テンポで荒々しくうねり、最大限に迫力を表現する。速さに乱れるか、感情のうねりを揃って歌いきれるか、合唱としては怖い曲だ。 ●第29曲 合唱コラール「おお人よ、お前の大きな罪を嘆くがよい」  第1部を締めくくる曲で、イエスの捕縛までを描いてきたこれまでの緊張から一変して、安らぐ雰囲気の合唱だ。コラールに分類されるが、簡素質朴なそれではなく、対位法を取り入れた大コラール楽曲になっている。合唱ソプラノにSoplano in ripienoが加わる編成、演奏時間も第1曲に近い長さになる。  歌詞は、物語の筋立てからいったん離れ、イエスの誕生から十字架につけられるまでの生涯を集約している。優美な旋律でありつつ決然とした印象で、全曲の中でも一つの要になっている素晴らしい曲だ。  しかしながら、この曲は合唱、特にバスにとって思いのほか難しい。合唱が8分音符で歌う、それだけなら難しくはない箇所で、同じ旋律をオーケストラの低弦が合唱より半拍先行して奏でる。ずれにより緊張感を出す意図だろうけれど、歌う側とすると、半拍のずれを正確に維持し続けるのはとても難しい。頭でずれと理解していても、先行する低弦の音が聴こえると本能的に合わせようとしてしまうのだ。そうしたフレーズが繰り返され、私には一番の難曲である。鑑賞の際には、このバッハの「意地悪」に注目すると面白さが増すだろう。低弦が16分音符二個単位で動く箇所です。  次に第2部。 ●第30曲 アルト・合唱Ⅱアリア「ああ、私のイエスが行ってしまわれた」  休憩時間後、第2部冒頭の曲だ。物語の筋にすぐに戻らず、イエスの捕縛を、旧約聖書のソロモンの雅歌、花嫁と花婿のモチーフに重ねた自由詩を歌う。  マタイ受難曲を構成する68曲は、物語を語っていく台詞の曲、直接的な感情を表す曲、登場人物の心を表現する曲、精神的・抽象的に省察する曲、教理を示し確認する曲など、その幅広さ、変化自在は大変なものがある。この曲のような変化球も投げる。バッハの奥深さである。 ●第38曲a 女中 福音書記者「ペトロが屋敷の中庭に座っていると」 ●第38曲b 合唱Ⅱ「確かに、お前もあの連中の仲間だ」 ●第38曲c 福音書記者、ペトロ「そこでペトロは呪いをこめて誓い始めた」  ペトロの否認の場面である。第16曲のオリーブ山の場面で、一番弟子ペトロは、「今夜、鶏が鳴く前に、お前は三度、私のことを知らないと言うだろう」とイエスに預言され、「たとえごいっしょに死ぬ羽目になろうとも、あなたを知らないなどとは申しません」と言っている。これが伏線。  第38曲aで、ペトロはイエスが捕らえられている大祭司の屋敷に忍び込み様子を伺う。 が、屋敷の女中らにイエスと一緒にいたと見咎められ、「そんな人は知らない」と否認する。それが三度重なった時、鶏が鳴く(第38曲c)。  第38曲cの末で、福音書記者が痛切に歌う。「ペトロは、イエスの言葉を思い出した」「そして外に出て激しく泣いた」と。聴きどころである。ヨハネ受難曲の同じ箇所より嘆きは短く、きっぱりとした印象だが、余韻が聴く者の共感をかき立てる。 ●第39曲 アルトアリア「憐れんでください、神よ」  この曲は、マタイ受難曲で最も人気のアリアだろう。ペトロの号泣の後に置かれ、ペトロの悔悟を歌う。ヨハネ受難曲ではテノールだったが、ここではアルトが受け持つ。主体はペトロだが、その内心をテノールに歌わせるのでなく、あえてアルト、外からの、客観的な視点の歌にすることで、悔悟の主体が広く普遍的であることを暗示しているのだろう。いつの間にか過ちを犯してしまう弱い人間存在である私たち、誰しもが罪に加担している私たちである、と。  そうした理屈はともかく、ヴァイオリン独奏が美しい嘆きの旋律を奏で、同じ旋律を深みのある女声が歌い出すと、しみじみとした音楽に、聴く者は参ってしまう。 ●第40曲 合唱コラール「たとえあなたから離れても」  第39曲に続くコラールは、ペトロのエピソードをキリスト教の教義から省察し、締めくくる曲である。四声それぞれが穏やかで歌いやすい旋律だが、個性に乏しい感もある。  カンタータ第147番の終曲コラール「イエスは変わらざるわが喜び」がこの曲の原型だが、ゆったりした3拍子から身軽な4拍子に変わっている。有名な「主よ、人の望みの喜びよ」も同じコラールからの曲だそうだが、もはや言われてもわからないほどの違いだ。 ●第42曲 バスアリア「私のイエスを返してくれ」  ト長調で一聴すると明るいが、この歌の主体はユダである。密告を後悔し、対価の銀貨を神殿に投げ込んで自殺する、その直後、このアリアで「(金は戻したではないか)私のイエスを返してくれ!」と歌うのだ。  前奏ヴァイオリンをなぞって、はつらつと歌い出す独唱は、奇妙な明るさのやや不自然な旋律だ。旋律の展開を予期しにくい曲で、次第に調子はずれの禍々しい印象になり、強気と弱気の間を動揺する心、さらには狂気までも思わせる。礒山氏によれば、このアリアの評価は長く定まらず、受難曲演奏の際に割愛されることさえあったという。  この曲をどう解釈して歌うか。自暴自棄なのか、諦めなのか、死後の世界からの客観なのか。ユダという存在をどう評価するか。バッハがどう考えて作ったと解するか、歌い手自身はどう考えるか。難しいアリアだ。その意味で聴きどころの曲である。 ●第54曲 合唱コラール「おお、血と涙にまみれ」  ピラトによる尋問で死刑が決められ、連行する兵士にイエスが鞭打たれ、侮辱される場面に付されたコラールだ。4度目のハスラー旋律だが、礒山氏はこれを「本命」と言っている。受難コラール歌詞の使用、高い調、高い音域、緊張や悲痛さの和声づけ、反復して2番歌詞もあること、などがこれまでと異なっている。 ●第62曲 合唱コラール「いつか私が世を去るとき」  イエスの十字架上の臨終直後に置かれた、ハスラー旋律の5度目、最終のコラールである。これまでの4曲と違って、ピッチは最も低く、短調が主となって沈痛な印象だ。ハスラー旋律の訴えかけるモチーフも変えられて、追悼の気配になっている。バスをミの音で終え、疑問文のような印象で終止していることも、意図があってのことだろう。 ●第63曲b 合唱「本当にこの方は、神の子だったのだ」  イエスの死の瞬間、神殿の垂れ幕が裂け、地震が起きる。それにより、ローマ人兵士達が「神の子」と認識する、という箇所だ。第63曲bは、たった2小節の短さだが、抒情的とも言える美しい和声づけの合唱で、印象に残る。  2小節だがゆっくりしたテンポで演奏され、多くの演奏では20~30秒くらいだろうか。だが、カール・リヒター指揮の有名な1958年の録音は55秒ほど。極端な遅さだ。楽譜の8分音符一音一音が長く引き伸ばされ、ソプラノの歌声がゆったりと天上から降るように聴こえる。そのように神聖さを強調した演奏にしている。  しかし思うに、ここは処刑する側の兵士たちにいくばくかの動揺が生じた、という場面ではないのか。さらに他の福音書には地震の記述が無いわけで、福音書を記したマタイの、教理を権威づけようとする潤色とも言いうる。兵士たちがイエスに突如帰依するに至ったような表現は少々やり過ぎで、60年前の古びた演奏、と私は感じていた。  吉田秀和(1913-2012)が、「今日の演奏と演奏家」(1970 音楽之友社)でこのリヒターの演奏を評しているのを改めて読み、考えが少し変わった。吉田は、イエスを裏切り逃げた弟子達、イエスを憎み十字架にかけることを求めた民衆、侮辱し虐待した兵士達、それらは私たち自身に他ならない、とリヒターが考えていると解する。その罪人たる私たちが奇跡に触れてはじめて神性を認識する、そうした我々自身の内面の一大転回の場面と位置づけられ、この2小節は受難曲全曲の「眼目」として演奏されている、ベルリンで接した実演でも同様だった、と吉田は言うのだ。そうした文脈で考えれば、なるほどこの曲は、強調される必然性があることになる。  愚かな弱い存在である私たち、という自覚は、プロテスタンティズムでは原罪の概念に結びつくのかもしれないが、普遍的な人間の姿への理解とすれば、キリスト教信仰を持たない私も共感できる。リヒターの演奏が唯一正しいとは考えないが、この曲に限らず、弟子達、民衆、兵士達の台詞の曲について、キリストを理解できない彼らの愚かさ、浅薄さを見る他人事の歌い方でなく、自分自身の姿を見る視点を織り込んだ当事者の歌い方になるかもしれない。実際、バッハの作曲は、様々な歌い方を許容する奥深さがある。 ●第65曲 バスアリア「私の心よ、おのれを清めよ」  全曲の終わり近くでバス独唱が穏やかに歌う曲であるが、礒山氏は、心を清めおのれの心をイエスの墓となす、という決意、信仰告白の表現と解している。そして、「私」とはバッハ自身だ、というのだ。  説得力ある解釈である。そうとすると、バッハの気持ちの中ではこの曲こそが受難曲の中心であるかもしれない。いずれにしてもこれが最終のアリアであり、美しい曲である。 ●第67曲 独唱レチタティーヴォ・合唱Ⅱ「今や主は憩いへとおつきになった」  バス、テノール、アルト、ソプラノの独唱が、順に短く歌って、イエスの死を伝え、自分たちの罪を悔悟し、贖いの受難に感謝する。礒山氏は、その内容はそれぞれのアリアが果たした役割を引き継いでいる、としている。独唱それぞれの後で、合唱Ⅱが「私のイエスよ、おやすみなさい」と別れの言葉を繰り返す。  短いが、ソリスト四人と合唱という豪華な布陣で、受難曲全体をまとめ、終焉に導く佳曲だ。 ●第68曲 合唱「私たちは涙を流しながらひざまずき」  これが最終曲。この長大な受難曲を締めくくるにふさわしい、バッハらしさにあふれた曲である。管弦楽の前奏が始まると、もう感動が押し寄せてくる。  「安らかにお休みください」とⅠ+Ⅱの二重合唱が歌うが、ヨハネ受難曲の終曲と同様、子守歌的な構想になっている。中間部に合唱Ⅰがスタッカートとシンコペーションで良心の痛みを述べるフレーズがあるが、それ以上に劇的に盛り上げることなく、また冒頭の音楽に戻って終結する。  情緒豊かな旋律だが、抒情的に歌うのでは駄目なのだろう。イエスの死を悲しむだけでなく、イエスによる贖いへの感謝、イエスの復活についての確信など、キリスト教信仰の根源となる捉え方を背景にする音楽である。  下手な解説は不要。オーソドックスでありながら、歌う者、聴く者に静かな感動をもたらして、この巨大な受難曲の幕を閉じる。 ■合唱を歌う立場から  マタイ受難曲は全68曲で、ヨハネ受難曲の40曲と比べて一層大規模な曲である。合唱が歌うのは、長短合わせて41曲(合唱Ⅰとしては35曲)。ヨハネの28曲と比べてやはり多い。  歌う上では、一方で、劇としての山場、音楽としての山場を自分なりに考える。また他方で、一曲一曲の持つ意味を認識し、それぞれの特徴や難しさを把握した上で、指揮者の解釈を理解して、歌うことができるよう練習している。  劇としての構成で、ヨハネ受難曲では、本筋のイエスの受難からの脇道で、ペトロの否認と悔悟、ピラトの逡巡を、二つの人間ドラマとして光を当てている印象があった。比較してマタイ受難曲は、最後の晩餐の場面、ゲツセマネの園の場面、ユダの裏切り・捕縛の場面、ペトロの否認と悔悟の場面など、多くのエピソードをマタイ福音書の原文に沿って物語っていく。それぞれを大事にして描写し、登場人物の心情も描いているが、いわば均等に描写している印象である。  音楽的な構成では、ヨハネ受難曲は第1曲、終曲(後ろから2番目の実質的終曲)がマタイのそれ以上に長く、より力点が置かれている。また、コラールの曲数が多く多彩で、重要視されている感がある。それに比べ、マタイ受難曲は、曲総数が多いだけに、物語が満遍なく展開され、適宜コラールが置かれて、音楽的にも均衡させつつ、総体で壮大な受難劇にしている感じだ。  両受難曲それぞれの特徴であり、どちらが良い悪いということではないだろう。  この受難曲の中で、内容上の中心、音楽上の山場はどこだろうか。  K.リヒターは、受難曲全曲の精神的内容の中心が第63曲bにあるとし、短いながら音楽的にも山場として強調している。吉田秀和はそのように理解した。  ドイツの音楽学者 F.スメントは、ヨハネ受難曲の対称構造を論じたが、マタイ受難曲についても同じ考えを適用し、ヨハネほど整然とした構造ではないが、マタイでは第49曲のアリア「愛の御心から救い主は死のうとされます」を、構造上のまた精神的内容上の心臓部とした。この第49曲は、上記の私の抜粋曲に入れていないが、愛ゆえにというイエスの受難の意義を、ソプラノが歌う佳曲である。総督ピラトの裁判が展開して民衆が「十字架 につけろ!」の叫び声を上げる山場で、この曲が静かに歌い出される。むしろ音楽的盛り上がりを静めるようだが、精神的には確かに受難曲全体の中心曲と言いうるかもしれない。礒山 雅氏もこの仮説に同意しているようだ。  一方で、中心、山場をあえて設けない考え方もあるのかもしれない。トン・コープマンが指揮する2005年の演奏DVDを視聴して、そうしたことを思った。コープマンは、劇的な表現を抑制しており、合唱の曲に関しても、強い強弱をつけずに速めのテンポで進めていく。清潔な印象であり、これはこれで宗教曲演奏の一つのあり方だろうけれど、私は物足りなく思ってしまう。  劇や音楽の山場は、第27曲のイエス捕縛、第38~40曲のペトロのエピソード、第43曲~第52曲のピラトの裁判、第59曲~終曲のイエスの死、といくつかもある。均等、均衡と述べたが、無論、バッハは淡々と作曲したわけではないのだ。しかし、どれもが山場になっており、全曲の中心はというと、私にはよくわからない。  音楽的には、第1曲、第1部の終曲である第29曲、最終の第68曲の3曲に特に力が入っていると思うが、これらは中心というより節目であり、当然か。  われわれの指揮者、松村 努先生はどういう考えだろうか。演奏会を楽しみにしている。  一曲一曲を練習するにも、バッハの曲は挑戦し甲斐があり、面白い。柔らかく美しく歌う曲、精神性の深い曲、感情を露わに出す曲、・・・。さまざまな曲に応じて、声を自在にコントロールすることが課題だが、私にとっては挑戦だ。周囲をよく聴いたハーモニー、正確な音程の跳躍はどの曲でも大事だ。また、第1曲のブレスのしにくさ、第27曲bの急速テンポ、第29曲のオーケストラとのずれ、などなど、曲それぞれの難しさがある。最初から最後まで集中力が必要だ。  しかし、難しさが面白さだ。少しでも進歩したいと思う。  「読書百遍、義自らあらわる」と言うが、ヘボ合唱団員としては、何度も繰り返しさらって練習することになるので、結果、細部まで曲に親しみ、他のパートやオーケストラとのからみまで覚えることになる。確かに、100回さらった頃には、私のような者にも曲の「義」が現れてくるものだ。アマチュアの特権で、時間はある。来年2月の演奏会本番までに、自分として、合唱団としてどこまで行けるか。  バッハのマタイ受難曲は、何しろ長大な曲であり、聴く方には敷居が高いだろうと思う。愛聴して隅々までよく知っているという方もあろうけれど、自分も含め、クラシック音楽愛好家でも数回聴いたくらいの方が多いのではないか。聴き通すだけでも大変な曲だが、その苦行に見合う、豊かな内容を持つ音楽だ。  演奏会では、歌う者の自己満足だけでない演奏、できるならば聴く方々にマタイ受難曲の感動を伝える演奏、に到達できればと思っている。