2020年1月11日PMS合唱団演奏会のハイドン「四季」 2019年12月

 PMS合唱団の次の演奏会は、ハイドン(1732~1809)の「四季」。2018年の「天地創造」に続くハイドンの曲である。  「四季」Hob.XXI:3は1801年頃の作曲で、「天地創造」と同じくハイドン晩年の傑作オラトリオと言われる。演奏時間が2時間ほどになる大曲で、私は、これまでレコード・CD、演奏会で聞くこと無く来てしまった。  「四季」は、タイトルどおり、春夏秋冬のそれぞれの季節を特徴づけるエピソード、神の創造による四季の自然への賛美を歌っていく構成になっている。イギリスの詩人ジェームス・トムソンの叙事詩「四季」から、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵が抜粋して台本を作成したのだそうだ。  Wikipediaのこの曲の解説によれば、台本を作曲するにあたり、男爵とハイドンとの間にかなりの確執があったという。男爵が擬音的な描写をいたるところで用いることを勧めるなど、作曲の内容への干渉があり、二人の関係は決裂の危機もあったが、辛うじて完成に至ったというのだ。  ハイドンが不満を持ちつつ作曲したかどうか私にはわからないが、「擬音的な描写」はまさにこの曲の特徴になっている。夏の嵐、秋の狩り・収穫後の宴あたりは、特に効果的に擬音が使われている。描写音楽は、バロック時代のヴィヴァルディの「四季」など、これ以前からあったのだろうが、音楽によってこれほどに場面を想起させるのはハイドンならではだ。  ハイドンの曲には常に、純粋な美しさ、健全な感情、躍動感、喜びがあるが、「四季」もそれらが満ちている。ハイドンの天賦の作曲の才は、擬音に限らず発揮されている。時間をかけて推敲されている印象で、旋律、和声、リズムがよく練られ、各所に機知に富んだ仕掛けが施されている。「天地創造」以上によく作りこまれていると思う。  しかしながら、である。一昨年、2018年演奏会の「天地創造」の記事で、どうも面白くないと思ってしまうと書いた。そして、理由を自分なりに考えてみた。こちら  「四季」もまた、音楽それ自体として美しく、まったくもって悪い曲ではないのだが、同じ感想を持った。ハイドンが持てる力を尽くして誠実に音楽を作っていることは疑わないが、ハイドンの心底からの音楽と感じられないのだ。結局、聞く者、演奏する者の心が鷲づかみにされる、ということにもならない。  四季・自然という題材、台本による制約、時代の枠、ハイドンの作曲の意識、・・・。同じような分析を繰り返すことになってしまう。良くも悪くも、それがハイドンなのだ。後世のヘボ合唱団員が言ったところで、しゃらくさく、詮無いことだ。  もう演奏会も近い。ハイドンの美点を聞く人に届ける演奏が少しでもできればと思っている。